久米島に関しては、まだまだ書き残したことがあるのだけれど、とても全部は書ききれない。とりあえずここでは特に記しておきたいことを、書き留めておきます。
久米島が地学的に大変興味深い島だということは書きました。全島が安山岩を中心にしたマグマの固まった塊に、サンゴなどからできた石灰岩が上に積もってできています。それが隆起したり沈んだりという運動で、だまざまな景観を作っています。
前回述べたタチジャミのさらに海岸沿いの西側に、ミーフガーと呼ぶ場所があります。ここには縦に裂けたような崖が海岸に立っているのですが、これは海側の石灰岩層(左)と陸側の凝灰角礫岩層(右)がずれて生じたものだそうです。
さらに手前の方の平たいところには、赤い層と灰色の層がきれいに積み重なっています。下の赤い層はやはり凝灰角礫岩層で、上の層は石灰岩、でもミーフガーの石灰岩よりもずっと新しいもの(約4000年前だとか)だそうです。
島はかなりの部分が石灰岩でできているので、当然、鍾乳洞があります。その一つ、ヤジヤーガマがさらに西に行ったところにあります。ガマというのはこちらの言葉で自然にできた洞窟のことです。本当の南部には約2000ものが間があるとか。沖縄戦では住民の避難場所になり、日本へも底を使いまた野戦病院としても使い、多くの悲劇が生まれたところです。
ここは、かなり大きな鍾乳洞で、中をめぐることができるようになっていますが、照明設備は一切ないので、懐中電灯が必携です。道から木の階段を下りると入り口が2つぽっかりと開き、片方は入れないようになっています。墓地として使われていたとか。確かに焼き物のちょっと大きめの茶色の骨壺が置かれていて、割れているものがあって骨が散らばっています。そっと心の中で手を合わせ、人が入れるようになっている方へ。
およそ800mほど洞窟を行くと天井部分が崩落してぽっかりと開けた場所に行きつきます。そこから先にも行けるのですが、這っていくようなところなので、ふつうはここで引き返します。途中でさまざまな大きさの石筍や石柱があります。暗い中を懐中電灯の明かりを頼りに辿っていく途中で、幸いなことに途中で天井からぶら下がっているキクガシラコウモリに出会いました。LED懐中電灯で照らしてパチリ。
先ほど述べた折り返し点のすぐ手前右側には石を積んだ祭壇の様なものがあり、そこにも茶色の骨壺が。さらに進んだところにも無造作に置かれていて、大腿骨や頭頂骨の一部が転がっていました。何たる死の近さ。ここでは市はごく身近な存在なんだと改めて感じました。
次は、ヤジヤーガマからさら西へ行き、島の西端にある久米島飛行場の東側に沿って北上して、飛行場の東北東の北原海岸の石切り場に向かいました。ここは明治から戦前までの間、屋敷の囲いやお墓、家屋の部材に使うために、石灰岩を切り出した跡です。きれいに切り出した跡が残っていて、人の作業なのだろうけれど、大変な労力だったろうと思いました。朝いちばんに訪ねて上江州家住宅の囲いは、まさに石灰岩を丁寧に積み上げたものでした。ここから運んだのかしらと思い、急にイースター島のモアイ像のことが頭をよぎりました。
これ以外に、3つの城(グスク)跡(具志川城跡、宇江代城跡、登那覇城跡)も見ました。宇江代城跡は久米島で一番高い(といっても310m)の頂上にある山城で、ここからは久米島が一望できます。現在はその遺構しか残っていないのですが、山城といっても簡単な館が建っていたと思われます。城のことをちゃんと書こうとすると、久米島の歴史、琉球王朝の歴史に立ち入らなければならないので、ここで止めておきます。沖縄の歴史についてはまたよく考えて書くことにします。
いずれにしても、久米島で見聞きしたことは、新鮮な驚きに満ちたものでした。案内してくれた久米島西中学校の島村校長先生(上の写真の青いシャツの方です)に改めて感謝します。