青雲の記5 本郷大学院時代

大学院生になる
1969年4月23日付で理学系大学院理学系研究科修士課程(動物学専門課程)に進学しました。修士課程2年、博士課程3年、あと5年も大学で学ぶのです。

多くの高校の同級生は、4年で大学を卒業してもう社会人になっています。出遅れているなーという気持ちもありました。ただ、ネクタイをして背広を着て通勤するサラリーマンにはなりたくない、と、ずっと思っていました。その姿を想像できないのです。ともかく自分で選んだ道です。頑張るしかありません。すでに書いたように、幸い奨学金の貸与を受けることが出来ました。家庭教師のアルバイトもしていたので、共働きならば結婚して生活していける見通しは立ちました。

第三講座に所属する
前に少し書いた気がしますが、動物の行動をやりたいとずっと思っていましたが、赤い血の動物でないと何となく嫌だったので、第一講座ではなく実験形態学(内分泌学)を標榜している第三講座に所属先を決め、小林英司先生の指導を受けることになりました。

第三講座に所属する大学院生になったので、地下の実習室から3階の第三講座の区画に移りました。医学部1号館に面した実験室と大学院生の部屋に机がありましたが、筆者は大学院学生の部屋に入りました。同室には先輩の林縝治さんと町田武生さん、それとデリー大学から留学していたR. N. Saxenaさんがいました。同級生の有松さんは、実験室の方でした。このほかに浅井正さんと横山勝彦さんが同じ講座でした。下の理学部2号館3階のフロア―マップの部屋割りは、記憶を頼りに再現しているので、若干の誤りがあるかもしれませんが、大筋ではあっていると思います。矢印は建物への出入り口を表しています。

理学部2号館3階のフロア―マップ

研究事始め
当時小林先生は、アメリカワシントン大学のDonald S. Farner教授との間で日米科学協力事業というプロジェクトを持っていて、鳥を対象とした研究を行っていました。それでいろいろと話し合って(多分)、ウズラを使って日照時間と生殖腺の発達ということから始めてみようということになりました。ウズラは豊橋の鈴経商店というところから購入し、本郷通りを壱岐坂通りへ曲がる角にあった岩瀬鳥獣店(今はもうない)へ送ってもらい、そこへ取りに行きました。下の写真は雄ウズラの成鳥で、送ってもらうのは3週齢なので、もっと小さく、この半分より少し大きいくらいで、嘴の付け根と眼の周りにまだ黄色い幼羽が残っています。参考のためにウズラの成長の様子を示す写真を載せておきます。写真はここからお借りしています。

右から3日、17日、31日齢の雄ウズラ

動物は飼育する場所が必要です。当時、理学部2号館には確か建物西側の地下1階(と言ってもエントランス部分以外は建物の周囲を掘り込んであるので外部に開いている)に、ラット・マウスを飼育する場所がありました。鳥類はこれとは同居できないので、建物の北西角にあった、以前は恒温室として使っていた部屋を鳥の飼育小屋として使っていました。ここでは小林先生が確かスズメの仲間の小鳥(メジロだったと思う)を飼っていました。そこに棚を入れてウズラを飼育するようにしました。幸いなことに恒温室だったために密閉性が高く、タイマーで日長時間を調節することは容易でした。ドアは木製の重たい片開きで、外側には開閉のための横向きの引手があり、その内側には中から開くためのロック解除装置が飛び出していました。

最初に行ったのは、次のような実験でした。3週齢のウズラを購入してこの部屋の日照条件を短日(8時間点灯16時間消灯、8L16Dと略記します)として2週間ほど飼育します。その後、日照条件を長日(16時間点灯8時間消灯、16L8D)に変えて10日間、飼育し、短日のまま飼育したものを対照群とします。10日目に屠殺して精巣を見てみるとその差は歴然、対照群では米粒ほどですが、実験群では銀杏ほどの大きさ。重さを計ってみると30mgほどの対照群と400から500mgほどの実験群。光周性刺激によって生殖腺刺激ホルモンの分泌が促されていることがよく分かり、感激しました。

当時は、鳥の生殖腺刺激ホルモン⦅FSHとLH)を直接、測定することはできず、雄の場合は精巣の重量増加で間接的に推定していました。Farnerの研究室で扱っていた鳥であるミヤマシトド(white-crowned sparrow)でも、この方法でした。ただウズラの方が重量変化がずっと顕著でした。もう一つ、ウズラには総排泄腔隆起(cloacal protrusion)という総排泄腔背側に膨らみがあり、これがテストステロンの影響で顕著に大きくなるということが知られていました。

元の論文(Sachs, 1967)ではこの膨らみを回転楕円体と考えて体積を算出しているのですが、小さいときは深さを測定するのが難しいので、長軸と短軸の長さを測定して面積として産出することにしました。上に述べた条件で飼育したウズラの総排泄隆起の大きさの推移は以下の通りです。この図、トレーシングペーパーに描いた当時の原図をスキャンしているのですが、懐かしいですね。この頃はすべて、ロットリングを使って手書きで原図を作成していましたね。

実験は、脳定位装置を使ってテストステロン(T)を視床下部に植え込み、長日による精巣の発達にどのような影響を与えるかを調べるというものでした。Tが視床下部に働いてネガティブフィードバックをする際の、標的場所を特定するというわけです。当時すでに小林先生はラットの脳定位装置を改良して、プレキシガラスの板に円錐形の耳栓を張り付けたもので頭部を両側から挟んで固定し、歯科用のレントゲン装置を使い歯科用X 線フィルムで撮影した像をもとに、カニューレの脳内への刺入位置を確認する方法を使っていました。X線を遮蔽するために、内側に鉛板を張り付けた木製の蓋付きの縦長の木箱の一方の端にX線発生装置、反対側に脳定位装置を置いて撮影するのです。3階の廊下に置かれたこの木箱を、みんなは棺桶と呼んでいました。このやり方をそっくりまねて、1cm ほどの厚さのプレキシガラスを金鋸で切り、L 字型の本立てのようなものをつくって耳栓を張り付けて脳定位装置に装着し、これで頭部を挟み、さらに嘴を固定して動かないようにしました。こうして、歯科用X線フィルムで頭部を撮影して刺入するチューブの位置を確認する方式を確立しました。

下の図のように、耳栓中央から嘴先端への角度を45度にすると、上から視床下部全域にアプローチできるようになります。この図は、凍結した脳を正中面で切断し、これをX線撮影した像を10倍に投影してトレースし、切断面の様子を描き込んで作成しました。

E:耳栓の中央。HO、TVはそれぞれ水平、垂直0の面

ウズラの脳地図はありませんでした。脳の全容を把握するために、まずBouin固定した成鳥雄の脳から厚さ10μmの連続切片をつくり、アルデヒドフクシンとトルイジン・ブルーで染色し、これを20倍に投影してわら半紙にトレースし、顕微鏡で見ながらそこに神経核などを書き込んでいきました。神経核の名前などは、Tienhoven and JuhaszのニワトリとKarten and Hodosのハトの脳地図を参考にしました。次の図の数字は、切片番号です。

さらに、別な組織標本をつくり、やはりアルデヒドフクシンとトルイジン・ブルーで染色して、視床下部周辺のもう少し詳細な脳地図を作成しました。数字は前交連(AC)からの距離(cm)です。視索上核(SO)と室傍核(PV)内の青く描いてある大型のニューロンは、神経分泌細胞です。

Sagittal sectionの地図も作成しました。数字は正中面からの距離(mm)です。正中隆起・脳下垂体の部位は、だいぶ前方に収縮しています。

次の図は、上の図にハトロン紙を覆って神経核の領域を点線で囲み、名前を入れたものです。

実際の実験を始めるまでには、このような準備に時間を費やしました。脳の切片から地図を起こして名前を付ける作業を通して、ウズラの脳の神経核の位置関係が、だいぶこちらの脳に入ってきました。こうした作業の後に行った実際の実験は、以下のようなものです。

最初は内径0.9mm のステンレススチールのチューブの先端に、T とコレステロール(Chl)を1:3の割合に混ぜた粉末を押し込んで,これにぴったり合う内棒で押し固め、このチューブを脳定位装置に装着し、歯科用ドリルで頭骨に穴をあけ、上に述べた方法で第三脳室の中へチューブの先端が届くようにウズラの脳に刺入し、先端のペレットを内棒で押し出しました。
その結果、下の図にあるように、長日による刺激によっても精巣の発達は起こりませんでした(黒丸)。この図では縦軸は総排泄腔隆起の面積を示しています。精巣は発達しなかったにもかかわらず、鳴く行動は対照群よりもずっと早く現れました。対照群のChl のみのインプラントでは、無処理の対照群とまったく同様に、長日刺激によって精巣は発達しました(白丸)。また、皮下に植え込んだ場合は、対照群と同様でした(白三角)。

これに意を強くして、今度は同じ大きさのペレットを視床下部のいろいろな部位に正中から1mm 離して両側性に植え込みました。結果は対照群と同じでした。これは明らかに、T が視床下部の第三脳室周辺部に働いて、精巣の発達(つまり生殖腺刺激ホルモンの放出)を抑制し
ていることを示しています。

T の作用部位を確定するために、内径0.2mm のチューブの先端にT とChl を1:1で混ぜたものを詰め込み、正中から0.3から0.5mm 離して両側性にチューブを刺入し、チューブを頭骨に歯科用セメントで固定しました。左右対称に植え込むのはなかなか難しかったですが、いろいろな場所に植え込んだ41個体のうち、n. tuberis(視床下部の一番底部の正中隆起に近い位置にある神経核)に植え込んだ7個体で、精巣の発達が有意に抑制されていました。どうやら作用点は狭い範囲にあるらしいことを示していました。チューブの先端を直接、脳下垂体に届くように植えたものでは効果がありませんでした。

各円の右半分は精巣発達の抑制の度合いで、左半分は総排泄隆起発達の抑制の度合いを示す。

この項に載せた図はすべて、保存してあった当時のデータとともにあった原図などをスキャンしたものです。

「研究事始め」として一気に書いてきましたが、準備期間を含めて実際にかかったのはほぼ2年間で、これらを修士論文としてまとめて発表会で発表し、英文の修士論文として提出しています。データと共に残っている記録によると、最初はわら半紙に鉛筆で書き始め、それを論文の体裁にまとめて初稿としてタイプして小林先生に見てもらっています。第5稿が「修士論文として提出」と書かれています。この間、初稿から第5稿まで、タイプしたものに紙を張り付けて提出すると、あいまいな点の指摘や、書き直しの文章が張り付けた紙に書かれて戻ってきて、それを検討して稿を進めるという作業の繰り返しでした。この間、第4稿をこの時、海洋研に来ていたHoward Bern さんに見てもらっています。小林先生にそうしなさいと言われて、海洋研に原稿を持って頼みに行きました。
さらに推敲を重ねて投稿するのですが、投稿したのは1971年6月なので、次の章で書く事にします。

日米科学協力事業シンポジウム「鳥」
時間を少し戻します。筆者が大学院1年生になった確か6月に、小林先生は六本木にある国際文化会館で、日米科学協力事業の一環として、内外の鳥類内分泌の研究者を集めて鳥の視床下部とゴナドトロピン分泌機構に関するシンポジウムを開きました。筆者は裏方のスライド係として、これに参加しました。研究会には海外からDonald S. Farner、A. Wolfson、Andrea Oksche、A. Tixier-Vidal、Brian Follett、日本からは石居進、田中克英、田名部雄一、中村司、今井清、見上晋一さんなどが参加しました。鳥という漢字を表紙にあしらったその時のアブストラクト集があるはずなのですが、見つからないので見つかったら書き足します。
エクスカーションは房総半島の木更津で簀立(すだて)漁を体験しました。浅瀬の海を歩いて簀立の中へ入り、手つかみで魚を捕まえるのですが、Okscheさんの足に合う長靴がなくて、困惑していた顔をよく憶えています。掴まえた魚はその場でてんぷらにして食べました。
木更津へ行く途中、千葉市にある農林省畜産試験場に寄りました。起伏のある広大な試験場の中を歩いた記憶があります。そうそう、場内に植わっていたユッカ(キミガヨラン)を見て、誰かにこれはSpanish daggerと言うんだと教えてもらいました。ちなみにこの試験場は、1980年に筑波学園都市に移転して、現在では国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構の一部になっています。広大な跡地は千葉県立青葉の森公園となって、千葉県立博物館、付属の生態園などの施設があります。
この会で多くの海外の研究者を知りました。親しく話したわけではありませんが、発表とその後の熱心な議論などをすぐ近くで見て、とても刺激になりました。

その他の研究のお手伝い
Saxenaさんは1968年11月から1969年10月まで在籍していて、同じ部屋だったことはすでに書きました。彼はピューロマイシンをラットの神経分泌細胞近傍へ植え込んで、バソプレッシン合成を止められるか、尿量でチェックする実験をしていました。室傍核に植え込んでいて、結果が出ていたのですが、視索上核にも植え込んで結果を得たいという小林先生の依頼で、ラットを使った実験を行いました。
ウズラで培った技術を用いて、ラットの視索上核へ両側性にチューブに詰めたピューロマイシンを埋め込み、メタボリックケージで尿量と飲水量を測定しました。ラットの数はわずか3頭でしたが(別に対照群として3頭)、植え込んだチューブの位置を切片で確認しており、そのうちの1頭は視索上核を覆うように埋め込まれていて(下のグラフのa)、組織を作成してアルデヒドフクシン(AF)染色をするとにニューロン内の染色される物質がほとんどなくなっていて(下の組織の写真の右側、左は対照)、飲水量と尿量の増加とよく対応していました。


小林先生がドイツのギーセンにあるJusstus-Liebig Universityへ1970年に3か月の短期留学中に手掛けた、第三脳室の脳室上衣細胞が脳室から物を取り込んで正中隆起部へ運ぶことを証明する実験を補強するために、ウズラの第三脳室内にhorseradish peroxidaseを注入する実験を行いました。注入後5から10分でautopsyし、脳を取り出して視床下部をglutaraldehydeで固定し、バッファーで洗った後、凍結ミクロトームで厚切りの切片を作成し、 peroxidaseの基質を加えて反応させ、生じた不溶性の茶色い物質で peroxidaseの位置を確認するのです。上衣細胞とその突起に茶色い物質を確認でき、第三脳室内の物質を運んでいるように見える像が得られました。

III:第3脳室、EP:上衣細胞突起、C:血管
この二つはいずれも1972年に論文になり、共著者に名を連ねています(論文2,3)。
:なおパブリッシュされた論文は、このサイトの研究のタブの下に論文名と共にPDFを閲覧できるようになっています)

その後の研究
テストステロン植え込みの実験の続きは、「光周性生殖腺刺激ホルモン分泌機構の解明」という全体像の下に、実験を進めることになります。ふつうは視床下部の各部位を電気的に破壊して、影響を調べるのでしょうが、Saxenaさんのピューロマイシン植え込みがうまくいったので、この方法を取ることにしました。さらに視床下部への入力を調べるために、当時ラットで流行っていたHalaszのナイフを使った実験を計画しました。これらについては、実際に実験を行ったのは博士課程に進んでからなので、次の章で述べることにします。

ウズラの飼育に関して失敗談を一つ。2号館地下にある元恒温室でウズラを飼育してきたことは述べましたが、この部屋でゴキブリを大発生させてしまいました。ある時、扉を開けると、壁にびっしりとゴキブリがいて、ぞれがザワザワと移動したのです。驚愕の一言、必死で撲滅を計った記憶があります。

大学院の授業と他学部を覗く
大学院でも取らなければならない講義がありました。手元に残っていた昭和44年改正の大学院理学系研究科規則に掲載されている専門課程授業科目表の動物学専門課程は次のようになっています。

この後に、2として「学部の単位を6単位に限り修士課程の単位とすることができる。」、3として「博士過程においては、特別実験2及び特別演習を22単位以上履修しなければならない。」とあります。
昭和44年度⦅1969)の大学院授業時間割とによると、動物生理学特論、魚学、動物生理化学特論第1、放射線生物学特論1が組まれているので、これらを修士1年生の時に履修し、残りを2年で履修したようです。でもどんな内容だったかは、ほとんど憶えていません。
ただ、阿部宗明先生の「魚学」はよく憶えています。たしか当時、阿部先生は農林省水産試験場に勤務していて、築地の魚市場に足しげく通い、後に築地魚市場おさかな普及センターの館長を務めることになります。講義の内容は憶えていないのですが、築地魚市場に阿部先生の引率で見学に行きました。朝早い集合時間だったと思います。たしかセリが終わってすぐの時間に場内を歩いて、さまざまな魚を見ました。
これ以外に、講座の雑誌会があり、教室全体の「総合雑誌会」がありました。これが特別演習だったのでしょう。総合雑誌会は、動物学教室の教員が順番にまとまった話をするもので、重井陸男さんがヴェーゲナーの大陸移動説と生物の種分化を絡めた話をよく憶えています。

本郷の地の利を生かして、他学部へ聴講に行きました。農学部に鈴木善祐先生の大学院のゼミを、浅井正さんと聞きに行きました。本間運隆さんと高橋廸男さんがいました。
また、文学部に哲学の講義を聞きに行ったりしました。特に許可を得たりしていないので、もぐりの聴講ですね。すでに書いたかもしれませんが、竹内芳郎の「サルトル哲学入門」や実存主義の本をたくさん読んでいて、哲学に興味があったのです。たまたま聞いた講義は、黒いカラスと白いカラスを例にした論理学・認識論の話で(多分これ)、あまり面白いと感じませんでした。2,3回でやめてしまったと思います。

東大闘争の後でも
東大闘争が終息した後でも、これが提起した様々な問題を重く受け止める空気は残っていました。動物学教室でも、浅井正さん、井内一郎さんなどの大学院生が集まっていろいろと議論しました。そんな経緯で、「資料集1 自然科学・大学の自治 東大斗争の提起したもの」という16ページのガリ版刷りのパンフレットを発行したようです。手元に残っていました。発行元は動物学教室斗争委員会、反戦反安保グループ「カオス」となっています。奥付には1970年8月1日発行とあり、発行人は浅井正、編集人は和田勝となっています。ここでカオスという名前を使っているんですね。表紙の字は、間違いなく筆者のガリ切の文字です。

前書きには以下のように書かれています。
「暑い夏が又やって来た、蝉が喧しく鳴いている。しかし 果たして蝉が来年又は5年後 無心に鳴くのが聞けるか不安であるが、来年も夏が来ることが予想出来る。
 東大斗争も3年目の夏を迎えた。あの当時、多くの学友の間に語られた科学観、大学観の実践が、いつの間にか、深刻な長い冬を経て個々の人々の断片的観念操作という安住の場所に置かれるようになってしまった。来年を確実に語りえぬ現実である。このような現状で、何らかの方法をもって人々の間に科学観を文章として紙面に定着させ行動に移項させねばならない、その作業の実現には、研究者としてではなく1コの人間存在として我々自身の生存がかかってくる。
 昂揚した雰囲気の中では、自ずと人々の口に上った思想は実際の行動に移され検証されていく、しかし、今日のように、鬱蒼とした森の中に形成された淀みのようになっている状況では、まったく現在の時空より疎外されてしまい、ココの人々の叫びは、間歇的メタンガスの湧出となり、静けさの中で弾じけ、静けさをさらに意識させる働きにしかならないだろう。
 ここに、メタンガスの製造源を明瞭に意識し、私たち全ての人々の歴史的責任に問いかける作業として、次の文章を送ります。(原文のまま)」
その後の本文は、章立てもなく14ページにわたってA4紙一杯にズラズラと書かれていて、小見出しもないので、とても読みにくいものになっていて、この長文をうまくまとめることは難しいのですが、大学と自治、科学と社会の関係、科学のあり方、大学で研究すること、などについての考えを述べています。読み返してみましたが、ブルジョアジーとかイデオロギーとかの用語が多用されていて、当時の雰囲気を反映していますが、十分に練り上げられた文章ではないように思います。筆者は当時、学生と労働者を同一にとらえて、ストライキという授業放棄をするとか、団体交渉と言って大学あるいは教授会と学生を対立する集団ととらえることには抵抗があったように記憶していますが、科学とはなにかをまじめに考えたことは確かです。このパンフレットと一緒に、1970年4月発行の全国医学研究者共斗会議の出した「新しい科学観の構築に向けて」というものがありました。また、岩波書店の「科学の歴史上・下」「科学思想の歩み」を買って読もうとしています。でも読了はしてないのですが。

この頃、南こうせつとかぐや姫の「マキシのために」という曲が流行っていました。シングル盤が発売されるよりも前にラジオで流れていたように思います。この曲を口ずさむとなぜか涙ぐむのです。なんだか東大闘争の盛衰と呼応するような気がしたのです。後で知ったのですが、マキシー(原詩ではピラニア)は実在の女性で、早稲田大学紛争で活躍し、後に自殺した作詞家喜多條の知人だったそうです。ですから涙ぐむのはまんざら間違いではなかったのですね。この歌の成り立ちと、この歌の最初のバージョンと後に吉田拓郎の編曲で歌われたバージョンのYouTube動画を含むページがありましたので引用させてもらいます。

マキシーそれがお前のあだ名さ
マキシーお前は馬鹿な女さ
マキシー夢を見たことがあったろ
マキシー二人で金をもうけて
青山にでっかいビルを建てて
おかしな連中集めて
自由な自由なお城を造ろうと

マキシー俺今まじめに働いてんだよ
マキシー風の便りに聞いたけど
マキシーどうして自殺なんかしたのさ
マキシー睡眠薬を百錠も飲んでさ
渋谷まで一人で歩いて行って
ネオンの坂道で倒れたって
馬鹿な奴だったよお前は最後まで

マキシー俺は明日旅に出るぜ
マキシーお前のせいじゃないのさ
マキシーお前程遠くには行けないが
マキシー一人旅には変わらないさ
悲しみを抱えたままで
夜空に浮かぶお前の
星を探すまでさようならマキシー
(作詞:喜多條忠)

資料集2は出していないように思います。歌にあるように、しだいにそれぞれがそれぞれの思いを胸に抱いたまま、日々の生活を送るようになりました。

小林先生は教授へ昇任して三崎臨海実験所へ移動
1970年4月1日付で小林先生は教授となり、三崎の臨海実験所に移動となりました。修士過程2年目に入ったばかりなので、一緒に移動せず、翌年の1971年に修士課程を終えてから後を追って移動することにしました。
長い間、空席になっていた第三講座の教授ポストに、放射線医学総合研究所から江上信雄さんが着任しました。4月25日に第三講座内の融和を図るためか、みんなで奥多摩にハイキングに行っています。その時の写真が残っていました。

高校の化学の非常勤講師を勤める
林さんがアメリカへ留学するために、その後を引きついで、1970年4月より都立富士高校で化学の非常勤講師となりました。ちゃんと辞令があり、学校要覧1970年版に非常勤講師として名前が記載されています。

3年生の選択の化学を担当しました。A組、C組、DE組の3クラスで、週6時間とあるので、それぞれのクラスで週2回の講義をしたのでしょう。準備をかなりしっかりした形跡があります。80枚ほどの京大式カード(B6カード)に授業内容が書いてありました。最初の2枚は、「科学について」と「女性について」でした。
「科学について」では、
 自然のモデル化して理解、
  観察→仮説(モデル化)→実験→定理、科学的定理
 科学的定理
  常に検証を受けている
  絶対的真理とは違う
  ただし有効性は問題になる。あるいは予言性
「女性について」では、
 女性と職業
 女性の解放
  男性社会
  にせものの女性上位時代
  女性の商品化
 男性中心社会の打倒
  教育の問題 教育の再編化の危険 ”女性よ家庭に帰れ”式の教育
 欄外に、”第2の性” ボーボワール、”男性と女性” M.ミード とあります。
富士高校は前身が女学校だったので、この時は女生徒の方が少し人数が多かったのです。
この2枚の後に、周期律から始まって無機元素とその化合物、有機化学、糖、タンパク質と続きます。今読んでも、参考になりますね。
はじめて教務手帳(No8)を使いました。縦長の黒い手帳です。左端に名簿の名前を張り付け、出席や試験の点数を書き込む、あれです。出欠と中間、期末の試験の成績が記入してあり、点が足りない生徒にレポートを課すなどしていて、評価に苦労した跡が見えます。
教育実習に続いて、実際に教える良い経験になりましたが、三崎へ移るので教えたのは1年間だけだったのだと思います。

自主講座「公害原論」
1970年10月より宇井純さんが自主講座「公害原論」を開講して、工学部82番教室で定期的に講義というか講演を行い始めました。夜だったと思いますが、これを聴きに行きました。最初の一巻だけですが、「公害原論」という本も購入しています(1971年3月刊行)。

当時、水俣病が大きな問題となり、チッソの責任追及や一株運動と言ってチッソの株を一株、買う運動が起こりました。筆者も一株、買っています。どこで、どうやって入手したか、ウーン、憶えていません。

また、チッソの株主総会が開かれた大阪厚生年金会館へ座り込みに行ったりしました。ここで、新聞記者の新宿高校の同級生だった矢野義明さんに偶然、会いました。取材に来ていたようです。

学会デビュー
修士2年の時の1970年10月10日から12日まで、九州大学理学部で開かれた第41回日本動物学会大会に参加して、上に述べたペレットを埋め込んだところまでの結果を発表し、これが学会デビューとなりました。動物学会には、このときに入会しました。発表は2日目の午後、総会の後で、D会場は普通の教室でした。プログラム(予稿集)には、次のような予稿が印刷されています。

講演申し込みの段階では、まだ第3脳室にテストステロンのペレットを植え込んで効果があったという段階で、その後、大会までにチューブに詰めたテストステロンを正中から1㎜離して両側性に植え込んだところまででした。講演のために話の手順を書いたメモが残っています。ずいぶんと気を使って準備した様子が見て取れます。講演が終わると講演要旨を提出するのですが、1㎜離すと効果がないので、もっと正中よりだろうとまとめています。
ところで、プログラムに、小林先生からのこんなメモが挟み込んであるのを見つけました。

これを見て思い出しました。小林先生は石居先生と共に、「脳の神経ホルモンと脳下垂体」というシンポジウムをオーガナイズしていて、初日の10日、14:30から17:30まで、オーガナイザー以外に4人の演者を加えた集まりを開いていました。プログラムの余白に、講演を聞いてのメモが残っていました。

翌日に講演を控えた有松さんと筆者は、シンポジウムが終わった後、演者たちを囲む夕食会のご相伴に預かったのです。ステーションホテル9階のレストランの一隅の、大きな四角いテーブルを囲んでの食事会でしたが、慈恵医大の石川博さんが熱弁をふるうのを今でも憶えています。このときは、若いのにすごいなーと思っていました。

九州へ行くのに、九州均一周遊券を買って、こだまで新大阪まで行き、そこから月光特急寝台で博多まで行っているようです。したがって10日の朝早く、博多に着いています。プログラムの最後のページに支出のメモが書かれています。当時の物価がわかるので、参考に書き留めておきます。
周遊券:6600、特急券:1400、寝台特急:2650。これ以外に10日:弁当こだま内:200、弁当、姫路で:200、珈琲:80、博多和朝食:200、手荷物預かり:50、市電:25、牛乳:27、福岡―大宰府:120、梅が枝饅頭2:40、大宰府―都府楼:45、都府楼―福岡:90、博多―九大前往復:50、弁当:200、とんだや泊:1840。博多に朝ついて、手荷物を駅に預けて大宰府に行ったんですね。11日:手荷物:50、ー九大中門:50、学会費:1700、電話代:50、ココア:400、バナナ・ミカン:190、パン(昼):105

学会が終わった後は、かをり(こう呼ぶ理由は、すぐ後にあるプラーベートライフをご覧ください)と合流して九州旅行をしました。母・梅子さんも一緒だったということですが、憶えていません。プログラムに都井岬観光ホテル黒潮荘のパンフレットが挟んであったので、ここに泊ったのでしょう。

都井岬では、ふつうに見る馬よりも小型の御崎馬を見たのは憶えています。ここ以外に、熊本城、宮崎の鬼の洗濯板、長崎グラバー邸などにも行ったらしいのですが、記憶が明瞭ではありません。

修士課程修了
修士論文発表会がいつ行われたのかはっきりと憶えていませんが、これが博士課程進学の試験だったのでしょうか、他大学からの人も交じっていましたから。こうして1971年3月29日の日付で修士課程を修了しました。1971年4月15日発行の東京大学理学部広報第3巻第4号に名前が載っています。

プライベートライフ
結婚
話は前後しますが、なんといってもプライベートライフで一番の出来事は、1969年7月に結婚したことです。相手はもちろん和田かをりさんです。本郷時代(2)にそれとなく書いていますが、前年の冬あたりから、ごく自然に結婚への道を歩んでいました。具体的にどんな形で結婚の申し込みをしたのか、などはっきりとは憶えていないのですが、結婚式は家とか親族とかとは関係なく、二人の間の個人的な誓いで、結婚式場でのコマーシャルベースの結婚式は嫌だという思いが強くあったので、二人だけで行うことにしたのです。

具体的には、上高地の帝国ホテルに泊まり、大空に向かって自然に生えている木の前で愛を誓うという「木前結婚式」を、7月7日に行いました。最初にデートをした日からちょうど一年目です。弟に頼んでこの日に相模原市の市役所に婚姻届を出してもらいました。日本ではどちらかの姓にして届を出すわけですが、森谷ではなく和田にしました。どちらにするか、じゃんけんをしたと言っていますが、本当にして僕が負けたのだかどうだか、はっきりとは憶えていません。多分、負けたのでしょう。それはともかく、6日に新宿駅から長野に向かう電車(アルプス2号)を、和田かをりさんのお姉さんと妹、それと友人たちが見送りに来てくれました。左側の写真にあるように、窓ガラスに外側から「JUST MARRIED ♥」と書いた紙を張り付けられて、動き出してから外すのに苦労しました。

一夜明けて7月7日、ホテルから式場(というのも変かな?)へ向かう二人です。

神聖なる木の前で、誓いを立てる二人。

帝国ホテルロビーにある大きな暖炉の横で。

翌日は、ホテルから梓川沿いに河童橋、明神池へ。

上高地に3泊して、9日に高山に向かいました。ちなみに、ベランダ付きバスなしのツインルーム(17号室)、食事は含まれず、サービス・税を含まない金額は一泊3600円でした。同じ規模の部屋が現在(2022年)では40000円台ですから、10倍になっているんですね。領収書が残っていて、ロビー階のレストランで何を食べてのかもわかります。

次の高山での写真は、飛騨民族館、高山市郷土館、高山市内の道筋、日下部民芸館です。

結婚をしたと言っても、独立して居を構える余裕はなく、相模大野の自分の部屋だったところで、新婚生活を始めました。つまり、母と弟と同居です。この頃父はほとんど相模大野の家にはいなかったように思います。
結婚の報告は、「ごあいさつ」を木版で手作りして送りました。

結婚を祝福する会
新婚旅行から帰ってすぐの7月13日(日)に、会費制の「結婚を祝福する会」を、お茶の水のコペンハーゲンというビア・レストランで行いました。しゃれた本館と広い庭にテントを張ってビールが飲めるようになっているお店でしたが、今はもうなくなってしまいました。たぶん今の浜田病院かその手前あたりにあったはずです。パーティーは本館を貸し切って行われました。このパーティーの実施に関しては、下の案内状の作成・発送や会場の設営など、同級生や第三講座の先輩たちに大変お世話になっています。参加してくれた人達が撮影した写真がたくさん残っています。
そのパーティーの案内状です。真ん中で開いて、二羽(二人?)を引き離すと、案内文が出ます。

コペンハーゲンの入り口を道路側から見た写真です。かをりの友人たちがたむろしています。

門を入ると受付があって、会費を徴収しています。いやー、今考えると、ヒトの褌で相撲を取るみたいで、汗顔の至りです。 

そのかわり、真ん中の部屋の壁際の席に座らされて、いじられます。

上の写真のように、三部屋の間の扉を開けて会場としているので、音声が聞こえるようにマイクと拡声装置を持ち込んで、マイクに向かって話しています。最初はかをりがマイクを持っていたのですが、十分、声が拾えていないと、小林先生がマイクを持って捧げています。

かをりも発言して、自分で受けています。

この後、ビールで乾杯して、宴は始まりました。

最初に小林先生のお言葉。多分、祝辞だったのだと思います。

神妙に聞いています。

高杉暹先生からも、おお言葉をいただきました。相変わらず、ユーモアたっぷり。

この他、2人の友人たち、かをりのお父さんなどからの言葉がありましたが、省略します、ごめん。

新宿高校からの友人、久保田光博さんがギターを持ち、彼の友人のベースを加えて音楽が入りました。筆者もなにか唄っていますが、何を唄ったか憶えていません。その次の写真では、駒場時代(二)で購入したと書いたボンゴで演奏に加わっていますね。

かをりのお父さんが手品を披露。

みんなで歌って、ダンスも。

最後にお礼のあいさつ。参加していただいて本当にありがとうございました。

締めは「チュッ」、総じて楽しい会でした。

ちょっと鎌倉まで
7月19日に鎌倉で散歩。最初の2枚はどこだかわからない!でも鶴岡八幡宮が写っているので、鎌倉に間違いありません。

油壷で夏休み
8月(日にち不明)には油壷の臨海実験所へ級友たちと行き、たまたま実験所にあったレガッタボートに乗り、油壷湾にこぎ出しました。

緑陰で読書、麻雀をしてる人も。

10月には多摩動物公園へ。どういう状況で行ったのか、そもそもこの写真、誰が撮ったのかも覚えていません。

お花見?
年が明けて1970年4月18日には、山梨県上野原にある大野貯水池へ。おそらくお花見に動物学教室の何人かで行ったんだと思います。あいにく雨模様でした。大野貯水池は、扇山の南麓にある我が国最初期の水力発電のために造られたダムによりできた貯水池で、桜の名所になっています。降りた駅が四方津駅、これを書くまで気が付きませんでしたが、以前、来たことがある駅でした(本郷学部時代(一)に出てくる)。
どこかで部屋に上がり、昼食を取っているようです。

雨が小降りになったので、貯水池の堰堤へ。遠くに桜が咲いているのが見えます。

帰りの電車の中。

ところで写真からわかるように、1969年10月から1970年4月までの間に口髭と顎髭を伸ばし始めたようです。朝の時間に髭をそる暇がなくなっての無精髭が始まりだったと思います。でも、それ以来ずっと、髭を維持しています。そうそう、富士高校での朝礼で、紹介されて挨拶をしたときに、髭を生やしているのに驚かれて一瞬ざわついたように記憶しています。この頃はまだ、髭は一般的ではなかったのだと思います。

信州へ旅行
4月29日から5月6日まで、ゴールデンウィークを利用して長野へ旅行しました。目的の一つは、長野市内の親戚の家に行って結婚のあいさつをすることでした。上野から長野まで急行妙高か信州で行き、泊めさせてもらって、翌日川中島バスで戸隠神社中社へ行きました。戸隠神社の有名な杉並木にはまだ雪が残っていました。

長野へ戻ってもう一泊させてもらいました。金銭出納を記したメモには、ケーキ5、440円とあるので、親戚の家族3人分と合わせて買い、みんなで食べたのだと思います。
翌日、中央線で奈良井へ。メモによると、奈良井駅から旧中山道を奈良井宿の街並みを見ながら藪原まで歩いて行ったようです。藪原からバスで桟温泉へ。

桟温泉旅館に宿泊しました。二人で3400円でした。今と違ってひなびた温泉宿でした。お風呂が真っ黒に見えた(実際には濃い茶色だったのかも)のをよく憶えています。下の写真の左に移っている白い円柱の裏側が木曽の桟跡で、背景に見える鉄橋は木曽川にかかる「かけはし」です(詳しくはこのページをご覧ください)。桟温泉旅館は、鉄橋の向こう側にあります。今回、これを書くにあたって調べて知ったのですが、ここは中山道の難所で、江戸時代(1600年代)には下の図のような木道が、下からの丸太に支えられて崖に沿ってかかっていて、これを木曽の桟と呼んだんですね。

桟温泉からバスで中央本線の上松へ。上松から南木曽へ汽車で移動しました。当時の中央線はまだ蒸気機関車デゴイチが走っていたんですね。上松の少し先に寝覚ノ床があります。花崗岩節理の白い岩が、木曽川によって削り出されて、大きな箱を並べたような景観をつくっています。記憶ではここを訪ねたと思っていたのですが、汽車の窓越しに見ただけで、この時は行っていないようです。

南木曽で降りて、旧中山道を歩いて妻籠を訪ねました。妻籠宿の脇本陣だった奥谷郷土館(現・南木曽町博物館)などを訪ね、景観保護を図っている妻籠の街並みを楽しみました。そのあと、馬籠峠を越えて馬籠宿へ。

馬籠宿では本陣、藤村記念館などを見て、四方木屋で一泊しました。四方木屋は藤村が息子のために建てた旅館ですが、今は旅館はやめて茶房だけになっているようです。

さらに中山道を西に進み、信濃と美濃の国境の新茶屋駐車場の前。

多分、落合の石畳道。

この後、中津川から中央線で帰途につきました。車内で峠の釜めしを食べています。

日光へ
5月13日にガルグ(R. K. Garg)ジーたちと日光へ行きました。ガルグ・ジーは小林先生のところへBarnas Hindu大学からきていた研究生で、もっぱら早稲田大学の石居研で仕事をしていたと思います。それで文京区本駒込のアジア文化会館の留学生寮に宿泊していて、会館の主催した旅行に一緒に行ったようです。

結婚一周年感謝パーティー
7月19日、新宿のモンモランシー桜で、「よく一年もった」ということで結婚一周年パーティーを開いて、双方の友人を招待しました。次のような手書きの案内状を出しています。

左の写真の左端に喫茶店「らんぶる」の看板が見えますが、「らんぶる」はい今でもまだ新宿東中央口から新宿三丁目に抜ける道筋にあるのに、大きな看板がかかったこのお店は、もうなくなっています。4階の部屋を借りて大きなテーブルをセットし、その周りにみんなが座って、代わりばんこに言いたい放題、楽しいひと時を過ごしました。

テアトルエコーへ観劇に行く
旅行以外のことも書いておきます。動物学教室事務室の長田美子さんが恵比寿に住んでいて、その近くに劇団テアトルエコーが小さな劇場をつくり、公演を始めました。熊倉一雄、納谷吾郎などが劇団員で、井上ひさしが座付き脚本家でした。こけら落とし公演として、井上ひさしの「表裏源内蛙合戦」が1970年7月にあり、券を買ってもらってこれを観に行きました。

テアトル・エコーのパンフレットより

この後も71年に「道元の冒険」「11ぴきのネコ」、72年に「マリリン・モンロー」「日本人のへそ」などを観に行っていることを付記しておきます。

逗子へ転居
油壷の臨海実験所まで通うために、1970年12月1日の日付で逗子市久木のアパート(逗子市久木3-1-5 和田荘7)に部屋を借りて相模大野から転居しましたが、詳しいことは、次の章で書く事にします。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ