昭和40年(1965)4月、晴れて大学生になりました。4月生まれなので成人になっていました。4月2日生まれなので正確には21歳です。記憶にないので、今みたいに自治体が主催する成人式の集まりがこの年の1月15日にあったのかどうか記憶にありません。なかったように思います。あるいはあったのだけれど、入試の直前にあたるので、それどころではなかったのか知れません。
生い立ちの記(16)の最後に述べた「入学許可書」には、 学生証番号は26403、クラスは理科二類6組Bとありました。 同封されていた「入学手続き日割表」では、手続き日は4月1日から6日までで、学生証番号に従って行うので「下表のとおり指定したからこれに従ってもらいたい」とありました。表によれば、26403の手続き日は4月6日(火)でした。それで、この日に駒場キャンパスに出かけました。自宅最寄り駅が小田急線相模大野駅なので、下北沢駅で京王井の頭線に乗り換え、駒場駅で下車、線路わきの坂道を上がってキャンパス表門にたどり着きます。当時は駒場駅と渋谷寄りに東大前駅が別にありました。この年の7月に両者が一つになって駒場東大前駅になり、東口から跨線橋の階段を降りると、正面に表門がある現在のような形になりました(ここに詳しく載っていました)。手続きの日だったかにもらった「駒場の学生生活」に織り込まれていた構内図を載せておきます。表紙と裏表紙にまたがる空中写真と比べてみて下さい。表門から第一本館を臨む下の写真は最近のものですが、門柱、扉、その奥に見える時計台のある第一本館の風景は当時も同じでした。
上の冊子とは別に、もっと小型で薄い「駒場の学生生活便利帳」も配布されました。
この日は学生部との面接を行うとありましたが、どんな面接だったかまったく覚えていません。手続きというのは授業料などの納入です。その領収書が残っていました。当時の授業料は一年間12,000円、入学料が1,500円でした。このほか、体育実習費、物理、化学、生物の実験費、学友会費、運動会費、スチーム暖房費!の合計5,100円を大学へ納入しました。
このほか、別の窓口や出店の机で学生会館運営費とオリエンテーション費、学生自治会費、それと向陵駒場同窓会費を支払いました。ついでに東京大学新聞の購読費2年分を払い、購読を申し込みました。
手続きの日には、いろいろなクラブが部員募集のために集まっていて、加入活動をしています。身体的特徴を見てのことだと思いますがラグビー部に勧誘されました。浪人をしたため、体重がだいぶあり、この頃がピークでした。ですが丁重に断りました。あまり運動部には入りたくなかったのです。理由の一つは、運動部特有な先輩後輩の関係がいやだったからです。それで文化系のクラブの生物学研究会と写真部に入りました。一つは生物をこの先も学んでいきたいため、もう一つは写真とか映像に興味があったからです。 写真部の部室は確か本郷キャンパスにあった気がします。夏休みに合宿があり、東北の三陸海岸だったかに行きました。そこにはOBが来ていて偉そうにしているのをみて、なんか運動部みたいだと感じて、合宿の後に退部しました。生物研究会の部室は駒場キャンパスの学生会館の3階311号室にあり、とてもよい雰囲気でしたので、ずっとこの研究会に在籍しました。これに関しては後で書きます。
手続きの日の翌日から本郷で身体検査があり、4月12日に安田講堂で入学式がありましたが、あまり覚えていません。それから少したってだったと思うのですが、学生主催のオリエンテーションがありました。場所は駒場キャンパスのすぐ西隣に位置する駒場公園の庭でした。旧前田侯爵邸の前には広い芝生の広場があり、ここに集まって、、、何をしたかははっきりとは覚えていませんが、クラス単位となり歌を歌ったりして親睦を深めたようです。手元に残っていた1年先輩の同じクラス(39年SII6B)の方々の作った「歓迎」というガリ版刷りの冊子には、学友会の紹介、クラス活動について、講義についてなど、先輩からのアドバイスが載っていて、最後の方が歌集になっています。表紙の裏の目次の下には次のような前書きがありました。「40年SII,III6Bの皆さん 入学おめでとう 僕ら39-SII,III6Bの野郎共もこころから諸君の入学を喜び、「歓迎」なるパンフを差し上げます。駒場の学園の様子を少しでも早く知り、諸君の若きエネルギーを存分に発揮してもらいたいと思うからこそ、無賃過重労働をなげきつつもつくりあげたものです。もう一度「入学おめでとう」」
オリエンテーションの日は、下の写真のように桜が咲いていたのでしょうか(写真は現在のもので、ここからお借りしています)。この頃はまだ、旧前田侯爵邸洋館は公開されておらず、公園内に今はある日本近代文学館もありませんでした。授業は4月13日に始まりました。
写真関連でいうと、少し先に飛びますが5月9日に、根津美術館で開かれた撮影会というものに初めて参加しました。「カメラ毎日」だったかに募集が載っていたのだと思います。モデルが二人、指導の人が一人で、根津美術館の庭園内のいろいろな場所でモデルさんがポーズを取り、下の2枚の写真のように、それを参加者がパチパチと撮影していくのです。時々指導の人が、どんなふうに狙うかをアドバイスしてくれました。
その時の作品です。たくさんあるので、その一部を載せます。ギャラリー表示なので、一部が欠けて表示されていますが、クリックすると元の画像が表示されます。
ちょっといっぱしのカメラマンみたいですね。この後、撮影会に参加したことはないので、これが最初で最後の撮影会ということになります。
授業について
大学へ入って、これで本当の勉強ができると思ったのですから、まずは大学での講義などについて書くのが筋ですね。幸い、成績表と駒場時代のノートなどの記録が入った段ボール箱が一箱あったので、それらを見ながら書いてみます。
当時の大学教育は、一般教育と専門教育に分かれていて、東大では一般教育は駒場、専門教育は本郷とキャンパスが分かれていました。駒場の2年間は、1年次の2学期と2年次の2学期、合計4学期に分かれていて、3学期の終わりに進学先の振り分け(進振り)が行われます。理科二類からは農学部の各学科と理学部の生物系の学科、薬学部の各学科、医学部保健学科と医学科に進学希望を出すことができますが、定員があるので成績によって進学先が振り分けられるのです。
理科二類の成績表を見ると、人文科学と社会科学から3科目取得しています。これ以外に以上、外国文学、第一語学、第二語学、数学、自然科学の物理学、化学、生物学、それと各科目の実験、体育講義と実技が必修で、一般教育演習(ゼミナール)と第三語学が選択できました。語学と体育実技は4学期まであるのですが、それ以外は3学期までで、これらの成績によって進振りが行われるのです。このほか教員免許取得のための、教育原理や教育心理学や4学期にありました。
クラスは上に書いたように理科二類6組Bですが、 実際には理科二類の43名と医学部へ進学する理科三類の12名の合同のクラスで、SII,III6Bと呼んでいて、クラス担任は伊藤薫先生でした。クラスといっても、高校のクラスと異なり大学では決まったクラスルームがあるわけではありません。ただ、語学や自然科学の教科などは、このクラス単位で実施され、クラスから学友会委員、生協委員、学生会館連絡員などを選出していました(どんな選出方法でやったか、覚えていませんが)。
大学からは「昭和40年度学生便覧」「体育実技履修の参考」「駒場の図書館ー新図書館の紹介」「図書館利用のしおり」、教養学部学友会から「学園ー36」、学生会館委員会から「学生会館ー新入生に贈る」が配布されました。学生便覧とは別に配布されたガリ版刷りの理科二・三類時間割をもとに時間割を組んでいくのですが、ほとんどのコマは語学と自然科学と体育の必修科目で埋まっていて、人文・社会の科目を選択するぐらいしか自由度はありませんでした。
語学:
第一語学はもちろん既修言語である英語、第二語学は独・仏・露の中からドイツ語を選択し、1学期だけ第三語学でフランス語を選択しました。でもフランス語は一学期だけで挫折しました。成績表には外国文学と第一、第二語学の別がありますが、外国文学(独)と第二語学の区別が思い出せません。
第二外国語であるドイツ語は初修なので、もちろん文法からやったと思うのですが、どんなことをやったのか、まったく覚えていません。と書いた後で、件の箱の中に「独逸語I、II、III」と記した3冊のノートが見つかりました。そこには第1課から第19課とあって、格変化や動詞の変化など、びっしりと書いてありました。結構真面目にやってるじゃん、と思いました。たとえば、第1課は名詞の性と定冠詞で始まり、最初の練習問題、Ich bin jung. Ihr seid auch jung. Wir sind alle jung. 僕は若い。君達も又若い。僕たちは皆若い。といった調子。最後の第19課は受動態の基本形、受動態の用法などでした。ノート以外にわら半紙にガリ版刷りの単語帳がたくさんありました。これは手分けして作成したもののようで、文責者名があります。多分、文法が終わった後に読んだ読本のためのものなのでしょう。残念ながらなんという本のためのものなのかは書いていないのでわかりません。ただ一つ手掛かりになる書き込みがあり、「参考書 大学書林語学文庫No814 『自然力の交互作用』対訳三好助三郎 250円 品不足気味急がれたし」とあります。これはヘルムホルツの著作で、この一部が読本になっていたようです。
英語は各学期2コマずつ、合計8コマあり、それぞれでいわゆる読本を使って講義があったように思います。いや、もしかすると前半4回は英語の基礎的なことだったのかもしれません。
読本で 今でもよく覚えているのが小松原茂雄先生の「Doctor in the house」です。医者の卵である医学生が病院での教育実習で失敗したりしながら成長する話で、とても面白く、読本では一部しか載っていないので、終わった後、ペンギン文庫で刊行されているものを買って読みました。Richard Gordonのこの本はシリーズになっているので、さらに続きのものを買って読みました。
そのほかの読本で覚えているのは、奥幸雄先生によるシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」、それとだれが担当か忘れたけれど(もしかすると中野利皓史先生?)、トルーマン・カポーティ―の若いころの作品で多分「Grass Harp」があります。 カポーティの作品は、このあと「Breakfast in Tiffany」と、ずっと後になって「In Cold Blood」を読んでいます。
人文・社会
人文科学として各学期に一科目ずつ取りました。順番は哲学概説(大村晴雄先生)、心理学(鹿取広人先生)、文化人類学(寺田和夫先生)でした。
哲学概説では、オッカムのカミソリの説明があったのをよく覚えています。説明するのに仮定が少なければ少ないほど良い、あるいは不必要な仮定を加えるべきではない、というものです。ちなみに大村先生は非常勤で、本務は東京都立大学教授だったんですね、今回初めて知りました。
心理学も人類学もかなり理系向きの講義だったようで、心理学ではHebbの話を覚えています。シナプス可塑性のモデルのような話をしていました。
社会科学は2学期続きだったようで、1学期と2学期に法学(碧海純一先生)と経済学(嘉治元郎先生と玉野井芳郎先生)、2学期と3学期に社会思想史(城塚登先生)を取りました。統計学も受講したのですが、途中で脱落して試験は受けていません。
社会思想史は、第2運動場に面した第二本館一階の大きな階段教室(710番教室)で受講した記憶があります。この科目は受講生も多く、おもしろく感じて熱心に受講しました。
人文・社会の6科目のノートも保存されていました。パラパラとめくるといろいろ書いてあって、感慨深いものがあります。
高校の時から哲学や宗教に興味があったので、大学での哲学や社会思想史などを学んで、さらに関連するいろいろな本を読んでいます。例えば、サルトル全集に入っていた「存在と無」を読み、アンガージュマンという言葉を盛んに使っていました。また、現象学にも興味を惹かれメルロ・ポンティ―の「知覚の現象学」を買いましたが読み通せませんでした。また、ボーヴォワールの「第二の性」を読み、マーガレット・ミードの「男性と女性」を後に読んでいます。フェミニズム(この頃はあまりこの言葉は使われていなかったと思いますが)とか女性の立場などについて、ずいぶんと影響を受けました。
数学
数学は1学期と2学期にあり、解析と幾何がありました。解析は亀谷俊司先生、定番の高木貞二の「解析概論」が教科書だったように思います。でも、解析も幾何も全く理解できませんでした。幾何の方は森繁雄先生でしたが、確かこの年度で退官となるので、評価が甘かったため救われたように記憶しています。どうも数学のセンスがないんですね。
自然科学・生物学
自然科学系の生物、化学、物理はすべて必修で、1学期から3学期までフルにありました。1学期の生物は2コマで動物と植物に分かれていて、動物が伊藤薫先生、植物が山田晃弘先生でした。2学期は伊藤先生、3学期は山田先生でした。生物方面に進もうと思っていたので、さすがに生物のノートはきれいにまとめられたものが残っていました。高校の時とは異なり、コクヨのスパイラルとじフィラーノートを使い、これに板書を書き写し、ミシン目で切り離して二穴のファイルにまとめてありました。ノートには日付が入っているので、いつ、どんなことを学んだかがよくわかります。
動物は生物学の歴史から話し始め、細胞の研究法、細胞の構造、細胞を構成する高分子、細胞の生理学的特性、そして組織学へと進みました。そのノートはかなりきれいに書かれています。黒板をそのまま写したのだと思います。伊藤先生の板書はきれいだったと記憶しています。以下ノートの一部です(6月8日から6月29日)。
2学期は発生学から始まりました。発生を基軸として、分類や発生のメカニズム、器官の分化、鰓弓器官、腸の分化、分泌の生理学などを絡めた話でした。 以下ノートの一部です(10月26日から11月9日)。
山田先生の方は主として生化学的な話で、一学期には生命誕生、ミラーの実験から始まって、エネルギー代謝、酵素反応、酵素の特異性、解糖とTCA回路、光合成、核酸などの話で終わり、3学期にはこれを受けて遺伝の話、メンデルから始まって遺伝全般のお話でした。こちらのノートは、上のような図がないので、コピーは省略します。いずれにしても、生物はかなり真面目に受講していますね。
化学
化学は吉岡甲子郎、吉岡、吉岡、白井先生のの4コマ、無機化学と有機化学をやったと思うのですが、これもあまり覚えていません。ただ、最初の化学の授業、確か吉岡先生でしたが、自著の教科書を教卓に座ってなぞっていくだけ、失望して興味を失いました。
物理学
物理は中村、野上、宅間先生の3コマ。これもあまり覚えていません。
自然科学実験・生物学
実験について。1学期の生物実験は動物と植物に分かれていて、動物の方はヒキガエルの解剖でした。教科書は木村雄吉著の「動物の解剖と観察」という、簡易製本のB6判の100ページほどの薄い本で、図版が全くなく説明だけの解剖指導書でした。前書きにある著者の「自然科学においては,深く知る為の第一の段取りは,自然に就ての知識をただ人伝に手渡された受動的なものではなく、自らの手と眼を用いて直接自然に立ち向かうことに在る」という考えによるものだそうです。内容は「ひきがへる」「みみず」「からすがひ」についてだったようですが、授業では、ヒキガエルだけを扱いました。ミミズ、カラスガイの記載が手にした教科書にあったかどうか憶えていません。
この教科書、手元に残っていると思うのですが見つからないので、ネットで探してみて、国会図書館の中に寧楽書房から1954年に発行されたこの本が収められていることがわかりました。著作権者の同意を得ていないので館内の端末のみで閲覧可能で、ネット上では閲覧できません。幸い公共図書館と端末が繋がっているというので、千葉市中央図書館に赴き、そこの端末で閲覧でき、コピーも取れました。奥付を見ると出版は1954年4月16日になっています。これとは別に1956年発行のものが神奈川県立川崎図書館にあることがわかり、前書きと本文の一部のコピーを郵送してもらうことができました。両者を比べてみると、内容は全く同じでした。国会図書館には大学などの公共機関に蔵書としてあるという一覧があり、それによると、一番古いもので1951年、新しいもので1972年の出版でした。上の表紙の写真は、1956年のものです。
ずいぶん長い前書きがあり(8ページ!)、ここには旧制第二高等学校で学生を指導するために作成して実習時に配布したものがもとになっていると書かれていました。自ら解剖しながらスケッチをし、文章をしたためたとあります。それなのにスケッチを載せなかったのは、1945年7月の仙台空襲で校舎が消失して一緒に焼けてしまったからだということでした。ただ、そういう消極的な理由ではなく、上に書いたように、既存の解剖図にあわせて対象をみるのではなく、自らの力で観察していく態度こそが真の観察であるので、あえて図版は載せなかった書かれています。最後の日付は1946年8月となっていて、寧楽書房より出版の運びとなったのだが、図らずも第二高等学校を去ることとなった、とあり、東京大学教養学部へ赴任したのだと思います。前書きの最後は、「この小著は、私にとっては二校十年の記念と成ったのである。私の研究室の窓に梅雨に濡れて咲いた桐の花や、校舎の前庭に咲き乱れた萩の姿を私はこの上もなく愛した。併しそれにも増して私は、来る年も来る年も生気に溢れて私の前に現れ、私を包み浸してくれ、そして流るる水の如く去って行った多くの青年達を忘れることが出来ない。私はそれらの人々にこの小著を捧げたい。」とありました。良い先生だったのですね。
よく調べてみると、寧楽書房より1947年8月に「高等教育解剖と観察」という形で出版されたようです。その後、1954年に上のような冊子として同じ出版社から刊行されていて、多分、同じ形で何回か版を重ねていたようです。
漢字と言葉遣いは古いもので、たとえば個体は個體、発達は發達など多数あり、そもそも「ひきがえる」は「ひきがへる」です。なお、別の出版社(成文堂)から、1984年に再改版が出版されています。中身を見ていないので、文体がどうなったかわかりません。
さて解剖実習の先生は菊山栄さんでした。生物の実験は一人一人が行うもので、一番最初に、大きなホーローの容器からホルマリン固定されたヒキガエルをコルク板を敷いた解剖皿に取り、よく洗った後、自分の名前を書いた木札を肢に結び付け、解剖を始めました。先生の簡単な説明があった後は、番号が振られた解剖指導書の記述を読みながら、実物を探っていきケント紙にスケッチするという操作を黙々と続けました。
作業の合間にふと窓の外を見ると、菊山先生はすぐ脇のサッカー場でラグビーボールを蹴っていました。解剖のスケッチは残っていません。返却されなかったのかも。
植物は、顕微鏡による組織、細胞の観察が主で、A5のケント紙に描かれたスケッチがたくさん残っていました。「接眼ミクロメーターのメモリの長さの測定」から始まって、「細胞の構造」「原形質分離と復帰」「細胞含有物」「体細胞の分裂」「生殖細胞の分裂」「唾腺染色体の構造」「茎の生長点」「維管束系ブタクサ」「維管束系オリズルラン」「光合成」。なかでも、気泡計数法による光合成速度の実験をよく覚えています。先生は畑中信一さんで奥様はドイツ人なので、レポートにはSehr gut!と書かれていました。
化学実験
化学実験は2学期と3学期にあり、2学期は無機で最初の実験は定性分析でした。溶液中の無機陽イオンを、試薬を使って決めていく操作を習得し、最後に試験として未知の溶液を渡されて(たしか2,3種類入っていた)、そのイオンを当てるものでした。そのほかの化学実験は忘れましたが、中和滴定があったかな。3学期は有機で、エタノールから酢酸エチルの合成、アニリンからアセトアニリドの合成のレポートがありました。
物理学実験
物理実験も2学期と3学期にありましたが、これも覚えていません。わずかに暗幕で窓を塞いだ暗い部屋で、何か操作をした記憶があります。「物理実験学プリント」によると、物理実験では、生物や化学の実験と異なっていろいろな測定機器を使うので、いっぺんに同じ課題を行うことはできないため、3クラスを18人ずつの12班に分け、さらに2人ずつ共同実験者となり、班ごとに12のテーマを二学期と三学期で6つずつ順番に行うとあります。テーマは「ニュートンリング」「光電測光」「ブラウン管」などとありますが、上に書いたように、はっきりとは覚えていません。というわけで、パートナーにだいぶ助けてもらいました(誰だったか忘れたけど)。
体育
体育実技は、最初の学期に体力測定がありました。垂直とび、20秒間の反復横とびの回数、3秒に1回の腕立て伏せの回数をやって記録を取られました。ずっと後の2018年に東大の五月祭に行った時、体育研究室のブースがあって、そこで自分の記録が残されていて、体力テスト研究に使われていることを知りました。当日もらった資料「16万件の蓄積から見えてくる東大生の体力」によると、1957年頃から上記の3種目で始めていて、踏み台昇降が加わったのは1978年のようです。ちなみに、「体育実技履修の参考」という小冊子によると、このテストで垂直飛び46cm、サイドステップ32回、腕立て伏せ24回が基準値で、これを満たさないものはトレーニンググループに入り体力アップに努める必要があり、満たすとスポーツグループとして各種運動競技を選ぶことができるとあります。
幸いスポーツグループだったので、あとは好きな種目を選んでやるのが実技の授業でした。たしか一回だけテニスだったけれど、あとの二回は野球を選択して、キャッチャーをやりました。ピッチャーは斎藤克浩君でした。講義もあったのですが、内容は忘れました。
語学や実験はクラス単位で行われます。クラスは55名で、ほとんどのクラスメートのことは覚えていませんが、何人かの人と主としてマージャンをやりました。教養学部の卒業要件として、当時は麻雀とダンスの習得というのがありました。ジャン友として思いだすのは、芹沢剛(三島の人)、小出義信、水上勝義、古川労(生物系ではなく数学へ進学した)さんなどです。駒場東大駅から駒場キャンパスとは反対方向へ跨線橋を降りると、線路に平行した道にぶつかり、この道の両側には雀荘と古本屋が並んでいました。そこでやったのです。
クラブ活動について
すでに書いたように、生物学研究会(以下生研)に所属しました。1年上に飯野建郎、片山洌彦、高山鋼市さん、同学年に井上康則、稲垣冬彦、斉藤昌宏、田矢洋一、柱新太郎、水上勝義、好田肇さんなどがいました。駒場でのかなりの時間は、クラブ活動に占められていました。学生会館は2年前にできたばかりで、そこの3階の311という部屋に部室があり、他のいくつかのクラブと共用でした。冊子「学生会館」によると、理論科学部、書道部、法学研と相部屋で、一応、簡単な間仕切りがありました。ここが講義がないときのたまり場でした。1階には食堂がありましたし。当時の広報手段は、わら半紙にガリ版刷りしかなく、学生会館2階のプリントセンターは大賑わい、部室でガリ切をしてはプリントセンターで印刷をしていました。
生物学研究会の機関誌として「生」があります。手元に駒場時代のすべてのもの(+α)が残っているのですが、1965年4月20日の日付のものが最初のもので、これには「癌」という英語を抄訳した記事と、この年の3月に東大油壷臨海実験所での「春期合宿報告」、それと「新入生を歓迎する」という記事が載っています。これはA4見開き4ページで、活版印刷です。その最後に、昭和四十年年間計画が載っていて、「四~七月 輪講・見学・採集、五月 新入生歓迎合宿、七月 機関誌「生」発行、七~八月 夏期合宿、十月 秋期合宿、十一月 駒場祭参加、十二月 機関誌「生」発行、三月 春期合宿」とあります。部員数は8名でこじんまりしたクラブだとありますが、4月からおよそ19名の新入部員が入り、にぎやかになりました。それで、6月30日に発行された機関誌「生」も、復刊第二号からはA4わら半紙にガリ版刷りの冊子になります。復刊とあるのはおそらく以前に発行されていたのが一度途絶えたためと思われます。1963年10月発行の名簿によると、昭和24年入学者からの名前があり、毎年増減はありますが10名前後の入部があったようで、そのどこかで機関誌が発行され、途絶えたものと思われます。それを飯野建郎・高山鋼市さんが復刊したのだと思います。ただしこれには「復刊」の文字はありません。
ここから、謄写版印刷用の原紙を鑢盤を使って鉄筆でガリ切り、できた原紙をプリントセンターへ持っていって謄写版でわら半紙へ印刷、刷り上がったものを製本、という作業での機関誌発行が始まりました。復刊二号は12ページ(ただし裏表紙は白紙)で、海外論文紹介、読書会「生物と無生物の間」と「生命の起源と生化学」のレポート、日本の奇病ー綿ふき病、すみれ採集記、入笠山雑記、無題、五月合宿、植物ゼミ、公害、公害、離島の昆虫、癌(前号の続き)というさまざまな記事が掲載されています(以降は復刊を省略)。春期合宿が三崎の臨海界実験所で行われたことがわかります。記事は主に1年生が書いたものです。奥付けには、編集委員として、井上康則、斎藤昌宏、松崎純一、好田肇、高山鋼市(責任者)の名があります。
1年生の時の夏期合宿ですが、この年からこれまでとは違って苗場での調査合宿になりました。どういう経緯かははっきりと覚えていないのですが、苗場スキー場で生態調査をやることになったのです。おぼろげな記憶では、高山鋼市さんあるいは斎藤昌宏さんが、なんらかの伝手でこの話を持ってきたのだったと思います。苗場国際スキー場(現・苗場スキー場)は1961年12月23日の開業で、筍山(1789m)の東斜面に広がるゲレンデにはリフトが5本あって標高差がおよそ900mあり、初級者から上級者まで滑れるスキー場として売り込まれました。当時は当然上越新幹線はなかったので、苗場国際スキー場には、上越線の後閑駅で下車し、バスで国道17号線を北へ向かい、三国トンネルを越えて浅貝まで行くか、あるいは後閑よりもう少し先の越後湯沢で降りて、17号線を南に下っても目的地へという行き方でした。現在のように、ゲレンデの東端の浅貝川沿いにプリンスホテルの建物が立ち並ぶ景色とは異なり、当時は下の写真の手前側にスキー客用のスキーハウス(玄関のホールから奥の方へ作り付けの二段ベッドがある部屋が並んだ構造の二階建だった気がします)があるだけでした。あと食堂棟が別にあった気がします。
この冬の施設を、スキーシーズンではない夏に都会の小学校や中学校の児童・生徒のための林間学校に使えないかと考えた支配人が、そのための基礎資料として周辺の生態調査をしてほしいと依頼してきたのです。そこで生物学研究会の総力を結集して(オーバーかな)調査をすることになりました。この年の夏は、7月27日から8月3日までの日程でした。植物、昆虫、鳥の班に分かれて、スキー場周辺の走破し、植物標本、昆虫標本、鳥の写真を台紙に張り付けて報告書を作成しました。ちなみに、ロッジに宿泊し、食事は食堂でして、宿泊費用なしでした。12月11日発行の機関誌「生」復刊第三号に、片平洌彦、斎藤昌宏さんによる苗場合宿記が掲載されています。また合宿の写真が手元にたくさん残っていました。
合宿記によると、着いて翌日の7月28日は筍山の調査でした。それを書く前に、まずは昆虫少年(もう青年かも)の雄姿の写真を紹介します。田谷洋一さんです。長い竿の捕虫網をあやつり、蝶や甲虫を捕獲する姿はとても印象的で魅力的な被写体だったので、少々追っかけをしました。
合宿の話に戻ります。着いた日の翌日はゲレンデのある筍山で小手調べ、軽く調査ということでした。ゲレンデの南側の斜面を登り始めると道が途切れて、背の高さを越える笹薮の中に入り込みました。「誰だ。こんな道を選んだのは」と叫んでももう手遅れ。進むしかありません。笹をかき分けかき分け、やっと尾根にたどり着きました。冬にはダウンヒルコースという名前がつく尾根筋です。熊笹の高さはかくの通り、下の写真、右の方に人の顔が見えます。
そこからロープウェイの下に出て、さらにロープウェイに沿って上に登り山頂駅に到着、お弁当の昼食にありつきました。筍山山頂は目の前ででしたが、今日はこれで撤収することに。帰りは行きに比べて早く、午後3時には宿舎の帰り着きました。でも藪こぎでみんなバテバテ。みんな疲れたと言っていましたが、夜になると「御開帳」だったようです。
ところで、生研の部長と副部長(?)である、飯野建郎さんと高山鋼市さんの写真を載せておきます。二人は全く対照的です。片やダンディー、片や土建屋風。足元が写っていませんが、片や軽めの登山靴、片や普通の長靴でした。
7月29日は筍山ゲレンデ周辺の調査。ゲレンデには見るべきものがないので、周辺の林の中へ。午前中は南側、午後は北側を探索、調査しました。休息している写真が多いのは、調査中はシャッターチャンスがほとんどないからです。
夜にはちゃんと、その日採集した植物や昆虫を同定して、記録します。
7月30日、この日は三国峠から大源太山、平標山、松手山を縦走して本橋へ下るという長距離縦断コースでした。前日の夜に造っておいてもらった朝、昼の二食分のおにぎり弁当、朝の分を食べて5時20分に宿舎を出発。朝早すぎてバスがないので、国道17号線をテクテクと徒歩で三国峠登山口まで。ここから登り始めます。三国峠から三国山への道、ここからの記述は、片平さんの合宿記の文章をお借りします。「霧が晴れて太陽が顔を出し始めたころ、胸突き八丁にかかって汗を流していた私たちは歓声を上げた。一面、花また花。白・紫・黄・紅、、、中でもひときわ鮮やかなのはニッコウキスゲの黄色。上がるに従い、ここにも、そこにも、あそこにも、、、。そして急勾配が終わると、辺り一面ニッコウキスゲの大群落。」
この後は、歩きやすい尾根道を平標山までたどります。下の写真、ちょうど中ほどに捕虫網を持った昆虫少年が歩いているのが見えます。
尾根筋を歩いていくと、西側の眼下に苗場スキー場のスキーハウスがマッチ箱のように見えます。お昼過ぎに平標小屋に到着して昼食。昼食後、平標山頂を目指してハイマツとシャクナゲが両側に広がる尾根道を進みながら、調査隊の面々は出会う植物を記録していきます。平標山頂上では霧が出てきて、雲行きが怪しくなったので、早々に下りることに。松手山を経て本橋まで下りました。途中にはクルマユリもハクサンフウロ、その他たくさんの高山植物の花がたくさん咲いていました。本橋からはやっぱり徒歩でスキー場へ戻りました。
昆虫少年でもなかったし、植物の名前はからきしだった小生は、鳥について知っているわけではないのですが鳥班に入りました。この縦走の時だったと思いますが、囀りを聞きながら鳥の名前を飯野さんに教えてもらいました。「焼酎一杯グイー」だの「銭取り銭取り(ジェニトリと読む)」などです。もう一つよく覚えているのはカクテルの話になり、バイオレットフィズの魅力について熱く語り、作り方を教えてもらいました。
こうして、筍山の苗場国際スキー場を起点として、片貝川を挟んでスキー場に対面する三国山から平標山の縦走は終わりを告げたのでした。結構、大変でした。
7月31日は、再び筍山周辺の調査でした。今度はスキー場のご厚意で動かしたもらったゴンドラで一気に山頂駅へ、続いてリフトで山頂近くまで登りました。リフトの座席は夏場は外してあるので、臨時に装着して運用。労力節約のために一人乗りのリフトに二人乗って走行、いやー、怖かったです。
このあと、やっぱり藪こぎがあり、頂上付近を調査しました。
8月1日から2日は苗場山周辺の調査でした。トラックで和田小屋近くまで載せていってもらいました。ラッキーと思ったら、道がひどくて揺れること揺れること。全員、荷台でどこかにしがみついていました。降りてから徒歩で和田小屋に到着しました。昼食の後、神楽峰まで足を延ばして下見。この日はそのまま和田小屋の戻り泊まりました。
8月2日 朝7時に小屋を出発、昨日と同じコースで神楽峰へ、そこから苗場山山頂へ。山頂で記念写真。頂上付近にはいくつもの池塘が霧の中に点在しているのが見えました。山の頂上の湿原なんですね。
昼食後、12時に下り始めました。昌次新道をひたすら駆け下ります。行けども行けども下り道が続き、2時間半かかってようやく赤湯温泉にたどり着きました。ここはひなびた温泉で、木造の古びた温泉宿がポツンとありました。泊まり込みで湯治をするためのようです。下の写真はここからお借りしています。写真の撮影日は書いてありませんでしたが、こんな感じの湯治宿がありました。
30分ほど休んで出発。途中、がけ崩れがあったり、狭い吊り橋を渡るなどして、ともかく走れ走れで宿舎に戻りました。
今日で実質的な合宿は最後で明日は帰るのみ、苦しかったこと、楽しかったことを思い出しながら、夜はささやかなコンパをしました。
8月3日 最終日。スキー場の支配人である佐竹さんに越後湯沢まで送ってもらいました。今度はトラックではなく、ジープと乗用車で。上越線で上野に向かい、車中では恒例のトランプ。午後8時に着いて散会しました。お疲れさまでした。
この時の成果は、12月11日発行の機関誌「生」三号に合宿記とともに植物と昆虫のリストが掲載されていますが、もちろん省略します。
駒場祭
次の大きな行事は11月の駒場祭です。テーマは「観念の原点よりも 認識と科学の原点を」だったようです。
でも生研の展示の様子がわかる写真がありません。機関誌「生」三号に小生が「駒場祭あれこれ」というタイトルで記事を書いているので、それ引用しておきます(一部読点を加えた以外は原文のまま)。
「駒場祭の準備がフル回転を始めたのは一週間前あたりからであったろうか。筍山の模型を作ろうと言い出した輩がいて模造紙書きと並行して始めることになった。最初はポリススチロールを使う予定だったが材料を入手できず、それを断念し他の方法を考えることになり、結局断熱材のポリウレタンを使うことになった。これを型紙通りに切って貼り付ける段になって一苦労。アラビア糊、ゴムノリ、大和のりのいずれもうまくゆかず、釘でとめたり、白色セメントで体裁を整えたりして、ようやく出来上がった。この他に二、三人の不逞の輩が”わとそん-くりっく-もでる”をゴム管と洗濯バサミで作り出した。とまあこんな風にしてワサワサガヤガヤと準備は進められ、祭りの前日には会場の301番教室に9人ほど泊まり込んで中国問題を研究したりした為、ヴィールスを仕入れた人間も多かった。
年々オソマツ化して行くそうである駒場祭にあって、アカデミックな雰囲気を保ち続ける生研の展示場は、それがあまりにもアカデミックすぎている為か敬遠されがちでもある。いやいや別にアカデミックな為ではなさそうだ。入口から白衣を着てブラブラしているおどろおどろしきオノコ達を見たら正常な神経の持ち主であれば、まあ踵を返えしたであろう。それはともかく準備完了して並べられた展示のテーマは”生命の誕生と死”。
教室の前の版分には今夏苗場へ植生・昆虫調査に赴いて得られた成果が参考として並べられている。植物標本、蝶の標本、植物分布図等があまりに素晴らしいので付録とて陳列したものながら、今回の中心テーマを圧倒する感がある。優秀な説明者はいるが、”まとめ”的なものがないので多少散漫な感じがする様に思う。
教室の後の半分には模造紙が貼付され顕微鏡が置かれゴム管が吊り下げられている。何とも殺風景である。実際は生命現象の不思議とそれを追究して来た或いはしている科学者の熱情が感じられる筈なのだが、素通り組が多いのはどうしたことだろう。テーマが広すぎるため参観者にまとまった生命感を与えることが出来たかどうかも疑問である。各パートがもう少し相互の関連を強調して一つの流れを作ったらもっと効果的だったろう。コアセルヴェートを見せるべく用意された顕微鏡も”準備中”の札がなかなか外せずやきもきしたが、それも最後には”こあせるべーと”らしきものが出現し、ほっとした。又”わとそん-くりっく-もでる”モドキも結構役に立ったし、一応様にはなったようだ。こうした模型や実験がもっと必要なのは誰でもが認める所であろう。
平成の活動の成果としての教室の前半分を、また特に駒場祭のために勉強した発表として後半部分を、それぞれ分割した今年の駒場祭であったが、やや両者不均等に力が配られたように思う。来年には平成の活動成果と駒場祭のための研究とが共により充実したものになるよう期待する。」
筍山の模型を作ったのは、なんとなく覚えています。でも、 コアセルヴェート のことやワトソン・クリック模型のことは憶えていません。
夏の合宿によって、苗場国際スキー場との結びつきができ、スキーシーズンにも行きました。1966年1月6日から8日(?)にかけて行った時は、調査というよりスキーを楽しみました。スケートはやったことがあるけれど、スキーは多分、生まれて初めてだったのだと思います。スキーの合間に、雪の上に死んだ揚羽蝶を置いて、何枚も取っています。多分、「生と死」というようなことを考えながら撮影したのだと思います。
ちょっとプライベートライフ
1966年1月の15日に、九品仏の境内で撮った写真がありました。上に掲げた苗場の合宿の写真は筆者が撮影しているので、自分の写真はありません。九品仏の写真は、筆者の大学1年生の時の風貌を伝える数少ない写真です。この時は、久保田光博さんのお姉さんとそのお友達と一緒でした。その後、お姉さんと彼の自宅に行っているようです。この頃は、久保田さんの家に入りびたりでした。
春の合宿が苗場で3月13日から18日まで行われ、積雪のある中、蝶の卵の採取や樹木中心の植物調査が行われました。ただし、これには小生は参加していないようです。というのも3月13日には、高校の同級生だった久保田光博さんが主催した(?)合同ハイキングに参加しているからです。その時の写真が残っています。彼の大学のクラスメートと、どこかの女子大のクラスメート(かな?)の合ハイ(といっても男性5人女性4人の小さなものですが)に、彼のお姉さんとともに参加したのです(総勢11人)。手帳に8時50分新宿駅ホーム前方と書いてありネガケースに高尾山、相模湖とあります。中央線で高尾駅まで行って、高尾山から相模湖まで歩くコースだったようです。この時の写真もたくさんありました。登り始めはこんな感じです。
最後の相模湖湖畔で、全員で撮った写真がこちらです。
途中で、お弁当を広げたり、キャンプ用薬缶とバーナーでお湯を沸かしてコーヒーを入れて飲んだりしました。
途中参加者をいろいろと撮ったのですが、久保田さんとお姉さんと筆者の写真のみを載せます。
再び生研の「生」について
2月発行の「生」四号に一年生有志が「二年生を語る」というタイトルで本郷へ進学する2年生のことを書いています。【総評】として、「とにかくみんなマトモではない。よく云って奇人、悪く云うと狂人?遊びことはとてもよくやる。(あんまりうまくないのに、、、)勉強は、、、、いわずもがな。でも人間的ミリョクは大で、アカデミックな生研になごやかさを植えつけた点においては功績が認められる。その反面、指導力にややや欠けるきらいがあったように思われる。読書会も尻すぼみだったし、研究らしきものもやらなかったから、点数60点(なごやかさ50点、合宿+コマバ祭10点)「可」。」とあります。その後に個人評があるのですが、要点のみにします。イイノ氏は「一見イイオトコ風。性質は外見に似あわずノンキ、カンダイ。(中略)ただし会長の重責を果たし生研を楽しい部にした功績大。」タカヤマ氏は「外見は手配師風、実際にすべての生研の仕事を手配してくれた。のんびりしているようで、いざとなると素早く行動を起こすので信頼できる。 (中略) 苗場と生研を結びつきを深めた点で生研の歴史上もっとも功績のあるものの一人であるから部室に肖像画を掲げておくことを提案する。
こうして「生」の発行は1年生の手にゆだねられていきます。筆者は四号までの編集委員に名を連ねていましたが、次の号からは発行責任者になり、ますますガリ切に精を出すことになりました。好田肇さんが「生」に日本の奇病というタイトルで連載をしていて、その最終回(「生」十号に掲載)の付録として生研の奇病というのを紹介しています。スリスリ病とキリキリ病です。 スリスリ病 は謄写版原紙が出来上がると謄写版で刷りたくて仕方がないという症状、 キリキリ病 は鑢盤と鉄筆で原紙を切りたくて仕方がないという症状です。筆者はキリキリ病にかかっていたようです。 こうした患者のおかげで「生」の発行頻度が高まり、別冊や小冊子なども発行されるようになります。次の写真は、スリスリ病患者の一人(?)の井上康則さんが謄写版で印刷しているところです。ただし、この写真は4月に入ってからのようです。
こうして1年生の二学期が終わり、2年生の三学期に入ったのでした。進振りはもうすぐ!長くなったので、コマバの2年目は項を改めることにします。