生い立ちの記12 新宿高校時代(前)

高校入学前
生い立ちの記(11)で書いたように、屋根裏から何冊かのノートが見つかり、その中に「日記帳」がありました。書き始めたのが昭和35年(1960)の3月20(日)となっています。謝恩会が19日でしたが、この記述の中に「明日が卒業式、、」とあります。つまり謝恩会の翌日、卒業式の前日から書き始めていることが分かります。読み返してみると、中学卒業から高校入学までの間の、おそらく大きな転換点だったのでしょう、揺れる心が記されています。そこでその部分を、高校入学前ということで少し記しておきます。日記からの引用部分の()は後からの補筆、訂正です。

日付の次の書き出しには次のように書かれています。
「日記というのは読み直してみると非常に楽しい。
その意味で書きたいと思ったのだ。続けたい。
僕は 思い出というものを非常に大切にする。感傷的かもわからないが。」

この後、「(今日は)ですな、ハイキングに行ったのである。」という書き出しで、この日、先生3人と生徒7人で、奥多摩の高水三山コースに行ったことが、かなり長く記されています。軍畑駅から高水三山をめぐって、御嶽駅までのコースです。

文中にしきりに「楽しい」「楽しかった」の文字が出てきます。岩茸石山から惣岳山の途中で大休止して昼食をした際の記述。
「ハライッパイタベタヨ、ボクハ。イイキモチデヨコ二ナリ、ヒルネ。遂に僕は二人の女性の枕にされた。枕のつらさ。でもその時の会話の楽しさ。金『ヤッホー』『・・・』金『答えてくれないや』僕『僕が顔を出すヨ』馬『私が手を振る』中『私は何?足をふるわ』馬『笑い声』皆続く。この時が一番楽しかった。」
帰りの立川からの南武線の車内でも、たわいのない会話が続いた様子が書かれています。明日はすなおになるから泣こうよ、と言い合い、3人の先生を愛称で呼ぼうと言って別れています。

3月21日(月)が卒業式。昨日のハイキングとは打って変わって、万感胸に迫る様子が書かれています。涙こそ流さなかったものの、胸に迫るものがあったようです。
「朝のHRの後、講堂に入る、卒業証書授与、式は進む。胸を(が)いたいほど何かが行き来する。校長の話『3つのH』熱心に聞いた。卒業の歌 送別の歌 ”ススリナキ” 送別の歌が後と両横から胸にじんじんとひびく。(中略)最後に『別れの曲』の(で)退場。」
この後、式が終わって、正門を拍手に送られ外に出た後、また音楽室に戻って矢田先生、春日先生、生徒3人でテープレコーダー等を使って話したり、写真をとったりという記述があります。最後に「とても矢田先生と別れるのが悲しい、矢田先生のことは忘れない」と書いてありました。

3月22日には、新宿高校に教科選定のために行き、翌23日には教科選定のカードを出しに新宿高校へ行っています。この時は金子君と一緒で、新宿高校を案内(?)し、終わった後、新宿御苑に二人で行きました。
「マンモス植物園に行ったら人が列を作っていたので前を通っていったら『そっちへいっちゃいかん』といわれた。よく聞いたら、天皇・皇后(両)陛下が来ていらっしゃるということ、ご尊顔を拝したてまつった。あんな近くで見たのは初めてだった。」
その後、植物園(大温室のことらしい)に入り、ウツボカズラ、マンゴー、パパイヤ、サボテン、ランなどを見て、帰りに都立大付属高校へ行き、歩いて自由が丘へ。途中で八雲学園、自由が丘学園、玉川聖学園を見たので、学校の多い所だと記しています。帰ってからまた中学校へ行っています。

3月24日にも尾山台中学校へ。記念樹のラベル造りというのが名目と書いています。ここでも金子君、馬場さんと会って、いろいろな話題について議論しています。この後も高校への入学式までの間に、3月25日、30日、31日と、何度も中学校へ行っています。
4月5日にも学校へ行き、職員室で矢田先生の手伝い、例えば生徒名簿を作るとか、謄写版印刷を手伝うとかです。矢田先生に読んだらよい本を聞いて、「ジャン・クリストフ」「若きヴェーテルの悩み」「魔の山」「検察官」「その前夜」「ツルゲーネフの散文詩」「罪と罰」「カラマゾフの兄弟」「アンナ・カレーニナ」「民話集・人は何で生きるか」「復活」「桜の園」「どん底」等と推薦してもらっています。また別の日には、「国立の大学へ入れよ、勉強しろ」と言われたとも書いてあります。推薦してもらったのに、上の本、ほとんど読んでいません、ゴメンナサイ。
高校生になることの期待と不安がないまぜになっていた時期なのでしょう。

この間、映画も観ています。「十三階段への道」「アジサイの歌」、読んだ本は、田山花袋の「布団・一兵卒」「アルトハイデルベルク」「聞けわだつみの声」。音楽鑑賞、といってもラジオの「お茶の間コンサート」や「シンフォニーホール」で聴いたり、友人宅でレコードを聴いたりです。また、「夜、父がレコードを買ってきてくれる」とあり、ユージン・オルマンディー指揮フィラデルフィアフィルのスメタナ作曲「売られた花嫁」序曲と3つの舞曲、ブラームスの「ハンガリア舞曲」。「5番6番が特に好き」、と書かれています。

3月25日には新宿高校へ組分け発表を見に行き、1A34番、選択科目は世界史、化学、美術と決まります。音楽を選択したらしいのですが、美術に回りました。3月26日に教科書を買いに新宿高校へ。国語、国文学、漢文、数Ⅰ(幾何・代数)、数Ⅱ、保健体育、英語(reader・文法)、化学、世界史、美術と全部で12冊を購入、「1貫もある」「重かった」とあります。

入学そして1年生
こうして、中学生から完全に抜けきっていないような状態で、入学式を迎えることになります。入学式のことを書く前に、新宿高校の校舎について書いておきます。校舎の写真は「生い立ちの記(9)ですでに触れたのですが、再掲しておきます。
入学して通ったのは、次の写真(昭和38年6月撮影)にある初代の校舎(大正12年落成)です。校門を入ってゆるい下り坂を少し進むと、第一グラウンドの端に突き当たり、グラウンドと建物の間の道を左へ進むと、がっしりとしたポーチを有する玄関入口へ行きつきます。建物はこの玄関を中心に左右に延びたロの字型をした2階建てです。玄関のポーチの横にはグラウンドに面して尖塔のある鐘塔があります。この時には肝心の鐘はもう無かったのですが、戦前には「興国の鐘」が設置されていたそうです。

プールから第一グラウンド越に校舎を望む(卒業アルバムからスキャン)

参考のために、現在の新宿高校の上空からの写真を載せておきます(国土地理院のページよりコピーしてネームを入れました)。新宿高校の敷地の北側を通る甲州街道が拡幅されて新宿御苑トンネルを通るようになったのと、東側の新宿御苑との間に新宿御苑バイパスが通るようになったため校地が狭くなり、一時期、第二グラウンドに第二代の校舎を建てて移転したのですが、平成16年の末に元の位置に地上7階の校舎を完成させて移転しました。それが下の写真です。屋上に見える青い四角はプールです。体育館などの運動施設も、この校舎棟の中にあります。鐘楼はもちろん無くなっています。ちなみに、校舎を並べて隣にあった区立四谷第二中学校も、無くなっています。

入学式は4月8日(金)でした。日記には次のように書かれています。

「開会の辞、生徒を点呼し、校長が重々しく『本学の入学を許可する』とおっしゃる。校長訓示、生徒宣誓、先生の紹介、学年担任の話、PTA会長の祝辞、閉会の辞、各委員の注意、、、、、。
午後から対面式。生徒会長のことばは雄弁で、ききごたえがあった。始業式、離任式、新任式で終わった。定期券を購入、定期でかよえるうれしさ。
4時ごろ写真をとりにフジクラ写真館へ行く。
5時から学校(中学校)へ、幹事会。」

校長先生は澤登哲一さん(新宿高校在任:1958~1963)、とてもユニークな先生でした。直接話したことはないのですが、第一グラウンドの脇の道を玄関に向かって歩いていく姿を見かけたことがありますが、カーキ色の国民服、足にはゲートルをまき、幅の太い軍隊用ベルトを緩めに締めて、頭には戦闘帽、肩からはズタ袋のような軍嚢を下げた姿でした。残念ながら、入学式の訓示が「おめえたち、、」という口調のものであったかどうか、まったく記憶にありません。

澤登さんのプロフィールや逸話は、小石川高校のデジタルアーカイブに書かれています。今回、これを書くにあたって調べていて、澤登さんは文化庁国語審議会委員であったり国立国語研究所の創設委員に名を連ねていることを知りました。国語学者だったんですね。我々の卒業と同時に退任されています。

卒業アルバムからスキャン

日記にある、藤倉写真館で撮った写真が机の奥に眠っていました。セピア色仕上げの家族写真で、筆者が高校生に弟が尾山台中学校に入学した記念の写真です。

こうして高校生になりました。1Aの教室は、ロの字の校舎の1階の左下隅でグラウンドに面しています。入学式の翌日は土曜日で半ドン、日記には以下の記述があります。

「朝は6時30分に起きた。7時10分に家を出る。つらいね、朝早いと。
HRでいろいろな注意、伝達。武井(担任)先生は、きびしい面とやさしい面を持つ先生。
午後ガンチ(小清水)の家へちょっといって、ゴー(後藤)さんの家でレコードを聞き、柔道をやる。前(原)さんを投げとばす気持ちのよさ。
(尾山台中)学校へ。小山(弘江)さんと山本(一美)さんに会った。先方からもpresentをもらった。すばらしい写真立て。同窓会のポスターを書いて、はってまわる。」

4月11日(月)の1時間目と2時間目には、数学と英語の試験(そんなに難しくなかったとあるので、たぶんプレースメントのため)があって、そのあとは、土曜日の続きのオリエンテーションで、図書館の話やクラブの紹介など。火曜日からは本格的な授業が始まりました。

理科の科目の選択順を、1年で化学、2年で物理、3年で生物としたのは、物理方面への進路を考えていたからです。中学生のころ、自由が丘に映画をよく見に行っていたことは書きましたが、自由が丘駅西側広場から大井町線の線路沿いに九品仏に向かってちょっと行った右側に古本屋さんがあって、そこをよく覗いていました。そこでガモフ全集の中の「不思議の国のトムキンス」と「1,2,3・・無限大」を購入して読んで、物理の世界に惹かれました。こんなことをしてみたいと思ったのです。それで大学受験のことを考えて、2年に物理を置き、その前に化学を習う、3年は生物で軽く流そうと考えたのでした。

4月12日(火)からしばらくは、授業の様子が書かれていました。日記から書き写します。

「(1時限目)英語のグラマー、先生はやたらに余分な『そう』等を入れて、ききずらい。辞書の話等
(2) 幾何、和田先生 ていねいにやってゆく。ノートすることがない。
(3)英語 これがなくて武井先生の話
(4)世界史 武井先生、話をベラベラしていくだけで終わった。ノートすることない。
 (2)と(3)の間に業間体操がある 徒手体操の変なヤツ。」
この体操、みんなは業間踊りと揶揄していました。下の動画は体育の先生の模範演技です。

「 昼飯
(5)体育 講堂で話を聞く
(6)化学 豊沢先生 話が早くてききとりにくい。

学校へ行って帰ってくるだけで、つかれちゃう。

4月13日(水)
(4)国語 湯本先生は女の先生だった。文を書かされた。
(6)英語リーダーは、入ってきて最初から英語でめんくらう。
 放課後、2G教室で英語の何かをやるというので、聞きに行った。米人の女の宣教師の人で、聖書と讃美歌の練習。この人の発音はきれい。だが、半分も解らない。また来て耳をならそう。
帰って、7時ごろ疲れて寝た。

4月14日(木)雨のち晴れ
(1)漢文 二木先生 入ってきて漢文の初めの方を読まされた。僕の所に漢文が入っていてまいった。
(5)化学、鈴木先生 実験室へ行った。3人づつになって実験器具も一組づつ。ガスも水道も3人の机についている。古いがよい設備。
6時限目の一斉活動は全クラブが一斉にやる。1年は見学。ベルと同時外に出て帰った。おそばを食べてガンチの家へ行く。同窓会のことで。夜、葉書を書いた。」

4月15日には、化学が3時限もあり、5,6時限目の豊沢先生の時間は、「まいった。てんで解らん」と書かれています。ついて行っていない模様です。4月18日の所には、「美術の先生(吉江新二先生)は変わった先生。美術をやるのが楽しくなりそう。」とありました。この後はもう、授業の様子はあまり書かれていません。

4月17日(日)には、尾山台中学校で同窓会がありました。ポスターを張ったり葉書を書いたりと、いろいろと準備を手伝ったようです。朝早く、といっても9時半に学校へ行き、講堂にいすを地下(?たぶん舞台袖)から出して並べるのだが、腰が痛くなったとあります。300人ぐらい集まったようです。第一部は会計報告などの事務連絡、第二部は演芸、落語家の古今亭朝太さんと金原亭馬生さんが来たようです。第三部が1時からフォークダンス、最後は外で「『大きな輪になって踊ろう』じゃないが、あんなふうに踊るのって楽しいもんだ。」とあります。
同窓会が終わった後、3時から金子君、福島君と自由が丘劇場へ。上映しているオットー・プレミンジャー監督ジェームス・スチュアート主演の「或る殺人」をどうしても見たかった、とあります。ソール・バスのタイトルがとても印象的でした。併映は「地獄の特派員」「拳銃の報酬」

4月19日(火)には授業が始まって1週間が過ぎ、昼休み屋上で昼食を食べた、と書かれています。でもって、高校が終わってから中学校へ行っていたようです。桑原先生に「卒業まだしてないみたいだ」と言われたあります。またこの日の記述の最後に、「僕、勉強が好きになるかな。楽しい夢を見たい。子どもで、朗らかで、ヒトと楽しく話しあえるようでありたい。・・・・・思いはつきない。」と感傷的な記述が見えます。まだ、高校生になっていないようです。

4月22日に身体検査がありました。日記に書かれていた数値を記入しておきます。「身長167.2㎝、体重67㎏、胸囲91㎝、座高89㎝、視力1.5(両方)、歯を除いて異常なし。」

このころ、テレビで放映されていた「ディズニーランド」という番組を見ていて、感激した様子が書かれています。例えば、4月22日に放映された「美術の旅」や、5月6日に放映された「大自然の神秘を訪ねて」です。

「美術の旅」は、ロバート・ヘンライ(Robert Henri)のThe Art Spiritという本をもとにしているようです(日記にはロバート・ライアンと誤記しています)。シルエットは芸術か、古今のシルエット芸術、バレーの動画、漫画映画の製作などのお話ですが、前3つの内容は憶えていません。漫画映画の製作は、それまで一枚一枚、描いたセルの原画を撮影していたものを、背景は背景として何枚か描いて、それを重ねて配置し、動く部分のセルをそこに配置して撮影していくという技法を、ディズニーが作り出して製作するといった話だったように思います(マルチプレーンカメラ)。ここまで書いた後、ネットで探したら下のような動画がありました。多分これですね。1957年の撮影ですから話が合います。

この動画を、日本語で丁寧に説明したページがありました。

「大自然の神秘を訪ねて」の方は、だいたい覚えています。日記には次のように書かれています。

「カメラマンが、昆虫、植物等を追う姿と、そのフィルムを見せる。アリについて。家の中を実験室にしてアリを飼っている。ガラス箱に水、餌をやり、そのガラス箱とガラス箱を結んでビニールの管がある。地下の通路である。
不思議な魚グラニョンについて。この魚は、夜、満潮の時、砂浜に泳ぎ来て砂浜に上がり、砂の中に卵を生む。そして又、海の中に帰ってゆく。次の満潮の時、卵がかえり、再び子が波に洗われて海へ放たれる。(中略)
植物の成長、微速度撮影の下での植物の成長。まるで動物みたいにつるが動き、とうもろこしの毛が動く。ラベルのボレロにあわせ、チューリップの発芽、根の成育、あさがおのつるがのびるさま、花の開花、とうもろこしの毛に花の花粉がかかるところ。次々に成長して開花する。りんごが芽をふき、花を開き、実になるようす。実に音楽によくあって、だんだん調子が高まっていく。最後にボレロの最強部分で各種の花が次々と開花して終わる。実に印象的で素晴らしい。感激!何度見てもよい。」
このボレロに合わせた植物のタイムラプス撮影の動画は、とても印象的でよく覚えています。

5月6日のことを先に書いてしまいましたが、4月22日以降、4月29日まで日記にはほとんど書きこみがなくて、「一日一日、空虚なうちにすぎてゆく」とあります。

4月29日は天皇誕生日で休日、この日のことはたくさん書かれています。東京労音4月例会の「カルメン」を観に行ったのです。確か春日先生が会員なので、切符を買ってもらって、中学時代の友人と文京公会堂での公演を観に行ったのです。カルメンは成田絵智子だったと思います(昭和音楽大学オペラ研究所オペラ情報センターの公演記録に、1960年4月29日に東京労音の公演があり、成田絵智子がカルメンとの記載がありました)。公演開始時間は18時。
日記は、次のような書き出しで始まっています。「さあ、今日は書くことがあるぞ。スリルとサスペンスに満ちた物語なんだ。」
この日、夕方の公演に行く前に、映画を観ようとお昼ごろに秋山君の家へ行ったら、すでに出かけたと言われて、弟と矢島君と3人で自由が丘劇場へ行きました。アラン・ラッド主演の「誇り高き反逆者」と、スティーブ・リーブス、シルバ・コシナ主演の「ヘラクレスの逆襲」を上映中でした。日記によると、時計を気にしながらも、どうしても「誇り高き反逆者」のラストが見たくて、見終わって慌てて家に戻ったとあります。開演に間に合うように5時の待ち合わせだったようです。家に飛び込むと、中村さんが待っていてくれて、二人で急いで待ち合わせ場所の渋谷に向かいました。
「5時10分についたら、よかった金子君と馬場さんは待っていてくれた。地下鉄で後楽園、文京公会堂へ着いたのは開演時間の6時30分。2階へのぼって席をさがしたがない。その時、指揮者があらわれて間(前)奏曲を始めた。最初シンバルと太鼓がなったので、下を向いて席をさがしていた4人は驚いた。ここと思うところへ適当にすわって一幕目を見た。(中略)2幕と3幕の間の間奏曲はよく知っているふし、『村のはずれの風車、』といって、僕たちの前の3年生が歌っていたっけ。」

この後、カルメンの舞台の説明が続きますが、省略。終わった後、遅くなったけれど、途中で合流した春日先生と渋谷で食事をしました。「何か食べようとしたが店がない。変な”そうそう”恋文横丁の中華料理店で炒飯を食べた。僕はすきっ腹だったのでうまかった。夜11時を過ぎていたので、「補導される」「補導される」と中村さんと馬場さんはおっかなそう。僕だって変なあんちゃんみたいのがいっぱいるんだもの。」
この後、春日先生が馬場さんを、僕と金子君が中村さんを、それぞれ家まで送りました。「さようなら」「またね」と別れ、「ああ、今日は楽しかった。オペラの感激もさめず、あの3人とお話ができたし、また行きましょう。」と結ばれています。
そうそう、途中に、「行の電車の話だが、金子君と中村さんは都市大付高の話をたのしそうにする。僕と馬場さんはつまらない学校だと自分たちの学校を思っているから、うらやましかった。」とあります。まだ、中学校を引きずっていて、新宿高校生になっていないようです。

ところで「ヘラクレスの逆襲」ですが、主演女優のシルバ・コシナは「芽ばえ」でグエンダリーナの母親役で中年女性でしたが、こちらの映画ではもっと若い役柄。でもこの映画を観てだったと思うのですが、好きになった女優は、下のポスターの四角い写真の下の方のシルビア・ロペス。妖艶な役柄です。

勉強部屋として使っていた納戸に置いた勉強机の上に、当時購読をしていた「映画の友」の中から写真を見つけて切り出して、小さな額に入れたシルビア・ロペスの写真を置いていました。この額も屋根裏部屋から出てきました。ただし、額の写真は、右上の小さなものを除いて「ヘラクレスの逆襲」ではなく、「エロデ大王」のもののようです。この映画は見たかどうか、はっきりと覚えていません。もう1本、「髑髏砦の血闘(原題:Il Figlio del Corsaro Rosso)」にも出演しています。これは観たような気がするのですが、あやふやです。

シルビア・ロペス(Sylvia Lopez)を何でいいと思ったのでしょうかね。桑野みゆきとはだいぶ違いますものね。中学時代の「憧れ」から、少し成熟して「性的対象」に移ったのでしょうか。ネットで写真をさがすと、こんなものがありました。美人であることは確かですね。

大分脱線しましたが、シルビア・ロペスは、1959年11月に26歳の若さで白血病のために亡くなります。したがって、女優として活動したのは1956年から59年、出演した映画もわずかに8本(日本で公開されているのは多分上記の3本)でした。亡くなったのは、ミシェル・ボワロン監督、ブリジット・バルドー主演の「気分を出してもう一度(Voulez-vous danser avec moi?)に出演しているときでした。彼女の役はドーン・アダムスで撮り直されています。つまり、自由が丘劇場で「ヘラクレスの逆襲」を見たときは、彼女は既にこの世にはいなかったのです。
話がカルメンの感激から、だいぶ外れてきてますが、もう少し続けます。机の上にはもう一枚、額が置かれていました。これです。

女優の名前は、ベリンダ・リー(Belinda Lee)です。これも雑誌から切り出したもので、あまりきれいな写真ではありませんね。ネット上に、もとになった写真ありました。
どうしてベリンダ・リーのことが気に入ったのか、全く覚えていません。どんな映画を観たのかも覚えていません。彼女も1961年に、25歳の若さで自動車事故のために亡くなっています。どちらも若死とは!

中学校の創立10周年記念第11回秋季大運動会の賞と印刷されている、タイトルは書かれていないノートに、外国女優の名前と略歴が列記されています。多分、高校1年生の時(もしかすると2年生)のものだと思われます。名前だけ書きうつします。
Rossana Podesta, Antonella Lualdi, Jean Collins, Tina Elg, Marth Hyer, Carolyn Jones, Kim Novak, Valerie Lagrange, Sandra Milo, Mylene Demongeot, Gina Lollobrigida, Sylvia Lopez, Belinda Lee
懐かしい名前ばかりですね。最後の二人の項には、無くなったことが書き加えられています。
また、2年生の時のノートには、下の写真のようなページがありました。授業中に書いたのでしょうか。だとしたら相当サボっていたことになりますね。

だいぶ脱線しましたが、高校生活に戻ります。勉強もしていたんだということを示すために、映画女優のページの後に書かれていたことを述べておきます。山口誓子の略歴が3ページにわたって書かれていて(出典先不明)、最後に作品として

 かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む

このページからお借りしています。鑑賞ノートもあり。

が載せてあります。自句自解の中で誓子は、「緑色のスウェタァを着た水夫」だとか、顔を食べられたのを「蜂はだんだらのスウェタァを着た胴体だけに」とか面白い表現をしています。また最後で、発表当時は「かりかり」が、実音か虚音かで問題になったが、「実音である。」と締めくくっています。ノートには、この他に次の2作品が載せられています。

 夏草に機関車の車輪来てとまる
 土手を外れ枯野の犬となりにけり

これらの句もいいのですが、筆者は

 学問のさびしさに堪え炭をつぐ

が好きでした。でも、「さびしさ」ではなく、「きびしさ」だと思っていましたが。

俳句ついでに好きな句ををもういくつか。水原秋櫻子の次の句が、鮮やかの光景を目の前に見せてくれて好きでした。

 石棺に木瓜咲き添えば去りがたし

もう一句。飯田蛇笏の次の句も好きでした。

 芋の露連山影を正しうす

このページからお借りしています。鑑賞ノートもあり。

俳句って、五七五のたった17文字で、雄大な景色を喚起する力がありますよね。受け手の感性に依存するので、人によって感じ方・捉え方は異なるのかもしれませんが、不思議な短詩の世界です。

どうも、ノートを取るのが下手なようで、世界史、1A34、森谷勝と表紙に書かれたノートは、世界史を二重線で消して、雑記帳と書き換えられていて、最初の数ページは先史時代の世界史のことが書かれているのですが、いつの間にか化学(鈴木)の「物質」、次のページには代数第3章一次方程式となり、さらに「守株待兔」「母笞」「刻舟求剣」などの漢文の原文と読み下し文が書かれていて、めちゃくちゃです。少し先に「のちのおもいに」とあり、抒情詩、青春の孤独の心情、ソネット形式などの文字が並びます。そう、たしか教科書に、立原道造のソネット形式(4,4,3,3の14行)の詩が載っていたはずです。この詩、好きでした。

 のちのおもひに

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

この詩に影響されたのか、数学の問題解法の記述が並んでいる雑記帳ノートの最後の方に、次のような無題の詩らしきものが書かれていました。

火山が荒れ狂い
灰をふきあげ
溶岩を流し
胸をうづめつくし
焼きこがす

冷えて岩となり
雨にうたれても
岩は燃えている

私はいつも夢を見ている

塔に、池に、緑に、、、、、、
重なる青と白と黒の格子のスカート
青い海

時は過ぎてしまった
悲しみもしらずに

しかし夢は
いつも私のそばにいる

今回、ノートを開いてみて、こんなものが書いてあることを発見しましたが、「のちのおもひに」に触発されているような気がします。前半二連と後半四連は、別のときに書かれたようです。なんとなく書いてあるイメージを思い出しました。誰かに対する淡い恋心の詩ですね。

四月末から五月始めの連休に。それまで勉強部屋にしていた納戸をかたずけて、玄関脇の洋間に移ったようです。下宿していた学生さんがいなくなったのでしょう。本箱、机を入れ、さらに布団を運び込んで、この部屋で寝るようになりました。

5月7日(土)は遠足でした。伊豆半島の東側の付け根に突き出た真鶴岬へ行ったのです。バスでの往復でしたが、あいにくの雨でした。風もあり寒かったけれど、着いたらともかくベンチで昼食を取って、名勝三つ石がある展望台へ、そこから海岸まで下りて写真を撮っています。

お天気が良ければ、こんな風に気持ちのいい景色なのに、残念でした。          トリップアドバイザーより拝借

バスの中ではおしゃべり、おしゃべり。少しずつ、新宿高校生になっていったようです。

翌日の5月8日は、打って変わって晴天。遠足が今日ならと、、と嘆息。
「午後に、吉田(かほる)さんと約束があるということで家でぶらぶら、やがて、1時ころかな、小山さんときた。吉田さんは6日に水郷の方へ遠足。おみやげの交換。水郷の乙女がかぶっているスゲガサのかべかけ。」
さすがにスゲガサ、残っていません。
今日は九品仏の浄真寺で花祭り。近所をぶらぶらした後、一緒に浄真寺へ出掛けました。

いろいろと屋台のお店が出ていたようですが、何も買わず。日記にはこの後、「多摩川へ行ってみる。河原を歩き、田園調布の住宅街を帰ってくる。写真は全部うつした。」とあります。はっきりと書いていないけれど、三人で行ったのでしょうね、はっきりと覚えていません。

高校では、中学校の時と同じように、音楽部と水泳部に入りました。音楽部の初めての活動が、5月12日の6時限目にあり、参加しました。先生が言うには、「授業の時はいい加減にやるが、部活動の時はしぼるそうだ。何だか変だが、しかし2年、3年とやれば君たちに何かをあげられる。音楽の神髄に触れさすという。なんだかうれしくなった。」で、リストのハンガリアンラプソディー2番に歌詞をつけた「ジプシー生活」を歌いました。発声させられて、バスだと言われ、いきなり歌わされて、驚いています。でもやりがいがあると感じたようです。
この後、6月12日に第14回関東音楽祭東京大会が共立講堂であって、そこに参加してこの合唱曲を歌っています。「成績はあまりよくなかった。終わってから学校でコンパを開いた。2000円ものお金を集めておかしを買って食べちゃった。」とあります。

水泳部の方は、5月16日の放課後にプールに入りました。この年のもちろん初泳ぎ。水は冷たく、200メートル泳いだらへとへと、とあります。結局、このあと何回か練習に参加した後、退部してしまいました。

5月21日(土)に、労音5月定期例会があり、同じように待ち合わせて文京公会堂へ出かけています。今回はタンゴの夕べ。早川真平とオルケスタ・ティピカ東京の演奏と、藤沢嵐子、菅原洋一の歌で過ごす3部構成の2時間、でした。「二部と三部の間に、カミニート『愛の小径』の歌の指導があった。菅原洋一さんの指導はおもしろく、歌を覚えてしまった。トンチンカンなことばかり言っている。」とあります。メロディーと「カミニートアディオス」というサビの部分はよく覚えています。下のYouTubeの菅原洋一は原語で歌っています。

第三部は、オルケスタ・ティピカ東京の演奏で、ラ・クンパルシータから始まりラ・クンパルシータで終わりました。アンコールでは「ママ恋人が欲しいの」ともう一曲を歌い、終わりました。

日記の中の興味ある記述。「金子君は昨日、国会へのデモに都立高校の人と行き、千鳥ヶ淵の戦没者墓の前で反戦の誓いをしたそうだ。安保について話し合う。僕ははっきりとした意見は持っていない。電車の中で話がはずみながら帰る。」そう、この年は安保改定の年で、5月20日に改定案が衆議院本会議を通過したところでした。

5月25日から2日間、標準テストがあり、前夜に付け焼刃の勉強をしたようですが、あまりできなかったよう。周りがみんなできるので、だんだん落ちこぼれになっていった記憶があります。

このころ、テレビでアメリカの西部劇ドラマの番組放映が始まり、西部劇は大ブームを引き起こします。前年度には「ローハイド」「拳銃無宿」「バット・マスターソン」、この年には「ララミー牧場」「ライフルマン」が放映され始めました。
「ローハイド」は、牛の群れを西部から東部に運ぶ間に起こる様々な出来事を描いていて、タイトルバックに流れるフランキー・レインの主題歌がとても印象的でした。

隊長のフェイバーさん(右)とクリント・イーストウッドが演じる補佐役のロディ(左)、炊事係のウイッシュボーン(中央)の掛け合いも面白かったですね。

ローハイドの主題歌は、難解でとても覚えられなかったですが、バット・マスターソンの方は、よく覚えています。

Back when the West was very young
There lived a man named Masterson
He wore a cane and derby hat
His name was Bat, Bat Masterson
(今回、調べたら、最後の行は次の連の最後のもので、最初の連ではThey called him Bat, Bat Mastersonでした。)ごっちゃになって憶えていたのですね。でも、二連以降は憶えていません。

5月26日の項に、「後藤君の家に行き、鳩小屋を作る準備をする。鳩をかうんだ。」とあります。後藤君の家の庭の東南の隅に、かなり大きな鳩小屋があり、鳩が飼育されていました。秋山君の家にも鳩小屋があったと思います。そんなこんなで、飼いたいと思ったようです。鳩の飼育については、生い立ちの記(9)の末尾で、中学校時代に飼ったような記述をしましたが、正しくは高校1年の時でした。「Pigeon 鳩」というノートがありました。鳩のことについては別に書くことにします。

5月27日には、「放課後、国語の宿題『日本語の+と-』を得るために東横(百貨店)をウロウロ。電車の中で耳をすますのだけど、なかなか見つからない。悪い日本語が耳なれてしまっているためだ。はては、丸川文房具店女店員さんに聞く始末。彼女も同じ意見。」
この宿題、よく覚えています。車掌さんの車内放送とか、電車内の表示とかに、おかしなところがないかと、一生懸命探した記憶があります。どんなことを書いてレポートにしたか憶えていませんが、今、考えると、日本語に対する感覚を磨くためのレッスンだったのかと思いますが、おかしなところばかりを探していた記憶があります。

6月14日に、クラス会の案内の文書を作成するために、中学校へ行きました。19日を予定していたのですが、先生の都合で26日にしてほしいというので、日時を変更してガリ切をやり、学校の謄写版で印刷しました。結果的に、A組とE組も同じ日にクラス会をやることになりました。できあがったビラを何人かに配布して、知らせたようです。

このビラの前にも、上にあるように3月にはクラスの住所録をガリ版で刷って、みんなに配ったようです(奥付きだけをスキャンしました)。ガリ切と謄写版印刷は、中学校で覚え、これが後で役に立ちました。

日記はここで、この年の記述は終わっていて、クラス会の様子も書かれていません。日記の記述が再開するのは1961年1月6日になってからです。高校1年生はまだまだ続くのですが、長くなったので、ここで生い立ちの記(12)は終わることにします。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ