生い立ちの記10 中学校時代に観た映画など

映画狂い
この頃は、毎週のように映画を観に自由が丘などに行っていました。「など」と書いたのは、自由が丘だけでなく、足を延ばして二子玉川や都立大学、学芸大学の映画館へも行っていたからです。この頃、先生に行き過ぎだと注意されたことを憶えています。でもめげずに、観に行ったのです。学校から行ったものもありました。

記憶のままに、観た映画を書き記すと、1年生の時に、ゆうれい船・鳳城の花嫁・喜びも悲しみも幾年月・明治天皇と日露大戦争・集金旅行・ジェットパイロット・風前の灯・張り込み・怒りの孤島・としごろ

2年生の時に、蟻の街のマリア・陽のあたる坂道・風速40米・モダン道中その恋待ったなし・彼岸花・野を駆ける少女・明日をつくる少女・紅の翼・最後の楽園・芽ばえ

3年生の時に、若い川の流れ・第五福竜丸・影・縛り首の木・リオブラボー・プリンセスシシー・十二人の怒れる男・北北西に進路をとれ

ですが、これはほんの一部です。屋根裏部屋から出てきた映画のパンフレットや、映画館の上映ニュースを見ると、もっとたくさん観ています。出てきた上映ニュースを下から年代順に4つに分けて写真に撮ったものを載せてみます。最後の写真はたぶん高校になってからのものだと思います。

困ったことに、どの上映ニュースにもスケジュールの月と日付は入っているのですが、年が印刷されていません。たまたま上映スケジュールの中に、自由が丘名画座を改めて自由が丘松竹に変わり、松竹映画封切館になるご挨拶がありました。これが昭和32年12月3日で、名前が変わった最初の封切映画が、「風前の灯」と「侍にっぽん」だとあります。

「風前の灯」という映画はよく覚えています。「喜びも悲しみも幾年月」を撮った木下恵介監督が、ちょっと肩の力を抜いて、同じ配役すなわち佐田啓二と高峰秀子が、灯台守夫婦とはがらりと変わって、金の亡者の母親の遺産を狙う夫婦役を演じたコミカルな映画でした。

これを自由が丘松竹で観たのですから、中学校1年生の暮れになります。これをもとに、いつ、どの映画を観たかある程度、推定できそうです。

「張り込み」が年が明けた昭和33年1月に自由が丘松竹で上映されていて、それを観ていますから、1年生のお正月に観たことになります。この映画もよく覚えていて、大木実と宮口精二の警視庁の刑事が、質屋強盗を手伝ったあと、ピストルを持って逃げた田村高広を追って、立ちまわるであろう昔の恋人の高峰秀子のいる佐賀に先回りをして、高峰が結婚して暮らしている家の前の旅館の2階に張り込んで待つという話です。田村高広は従犯で、主犯はすぐに逮捕され、その供述から佐賀のことが分かるのです。この映画、脚本は橋本忍。監督野村芳太郎で、脚本もいいしカメラワークの優れています(最近、ネットで見つけて思わず全編、観てしまいました)。佐賀へ向かう夜行列車の場面から張り込んでいる2階の部屋のシーンまで、蒸し暑い様子が画面から伝わってきます。ポスター画像はここからお借りしています。
上に載せた4枚の上映ニュースの写真の1枚目、右下の方に田村高広の写真が入った自由が丘松竹のニュースが写っています。

同じ写真の上映ニュースのすぐ下に、「集金旅行」の佐田啓二と岡田茉莉子が写った上映ニュースがあります。これはまだ松竹封切になる前の自由が丘名画座時代のものです。この映画も面白かったです。特に最後のどんでん返し、その後、佐田啓二が阿波踊りが終わった徳島からフェリーで帰る船上で、お土産にもらった「焼きもち」を一口ほおばり、「てやんでー」とか言って思わず包みごと海に放り投げてしまう最後のシーン、なかなか効いています。
原作は井伏鱒二です。後で短編小説を読んでみたら、大筋はともかく細部は全然、映画とは違っていて、脚色というのはこういううものかと思いました。この映画がヒットしたので、松竹ではロードムービーっぽいxx旅行シリーズが何作かつくられます。

上に書いた「喜びも悲しみも幾年月」は自由が丘名画座時代に、つまりこの年の前半に観たのでしょう。文部省特選ですから学校から行った記憶があります。長い映画でしたが、日本各地の灯台の風景が印象的でした。「おいら岬の灯台守は、妻と二人で、、」で始まる主題歌も随分と流行りましたね。
この映画、観たときはもちろんそんなことは思いませんでしたが、今、観てみると、戦争シーンが出てくるわけではないのですが、いくつかの灯台の俯瞰撮影の映像が出てきて、誰それ殉職という字幕が入るシーンが続く場面があります。木下恵介が昭和19年に撮った陸軍省依頼の「陸軍」というの映画にある、抑えられた反戦の思いが、ここにもあるように感じます。

最後に近い場面。長女が結婚して夫の赴任先のエジプトのカイロに赴くとき、二人が乗った客船に向かって、台長として赴任している御前崎灯台から灯火と共に霧笛で合図を送ります。船のデッキから灯台の明かりを確認した二人からも船長に頼んで霧笛で応答してもらいます。灯台の明かりと霧笛、応答する客船の霧笛。ここが観客をぐっと来させる場面です。客船を見送りながら交わす夫婦の会話も泣かせるものでした。
いまさらながらですが、佐田啓二はいい俳優だったんですね。交通事故で亡くなってしまい、本当に惜しいことをしました。

ところで、保存されていた一番古い上映ニュースは、武蔵野館のものでした。上映映画は「マルコポーロの冒険」、主演はゲイリー・クーパーです。この映画の製作年は1938年、日本公開が翌年ですから、武蔵野館が古い映画の上映館であったことが分かります。この映画は中学生の時よりも前に、母親と観に行ったように覚えています。

昭和33年2月に公開された「怒りの孤島」も文部省推薦で、これも学校から観に行った記憶があります。でもこんな映画どうして観に行ったのでしょうね。結構、刺激の強い映画でした。瀬戸内海の小島で漁で生計を立てている親方のもとに、舟の漕ぎ手(舵子)として子供が売られてきて、こき使われ、言うことを聞かないと檻に入れられてしまう、ついに子供たちが島を脱出しようとする、というお話です。分校の先生の娘として二木てるみが、かわいい子役で出ていました。下のポスターで傘をさしている子です。
ストーリーの細部は憶えていないのですが、檻に入れられた子供は餓死してしまうなど、なにしろ刺激が強い映画でした。

この映画と併映されていたのが、まったく趣が異なる「としごろ」です。戦前に島津保次郎監督によって撮られた「隣の八重ちゃん」という映画のリメイクです。隣同士の家の父親役が日守新一と中村是好で、いい味を出しています。年頃の二人は、石浜朗と桑野みゆきで、ここで初めて桑野みゆきを知ります。

この映画で、桑野みゆきは女優として花開いたようで、同じ年である昭和33年には、青空よいつまでも(5月)、モダン道中その恋待ったなし(7月)、花嫁の抵抗(8月)、彼岸花(9月)、野を駆ける少女(9月)、赤ちゃん台風(10月)、明日をつくる少女(12月)と、立て続けに出演していて、後半の3本は主演を務めています。このとき、彼女はまだ16歳なんですね。2つ年上だったわけですが、長い間、もっと年上だと思っていました。

桑野みゆきのデビュー作である「柿の木のある家」(昭和30年公開、13歳)も後から上映している映画館を探し、いつだったかは憶えていないのですが、確か二子劇場に観に行っています。この映画は壷井栄の短編集「柿の木のある家」にある表題作と「ともしび」「坂道」をもとに脚色された映画で、桑野みゆきは主人公ヒサノのお姉さん役で出ています。壺井栄の本は「ノンちゃん雲に乗る」と同時期に持っていて読んでいました。映画のタイトルは「柿の木の、、」ですが、映画の内容は「ともしび」や「坂道」でしたね。ヒサノは5人姉妹の真ん中で、いつも「真ん中馬糞、挟んで捨てろ」とはやし立てられているんです。

桑野みゆきは、「柿の木のある家」でも、昭和31年製作の「こぶしの花の咲く頃」(中原ひとみ主演)でも、ちょっと悲しい面を持った少女の役を演じています。「野を駆ける少女」でも信州の田舎娘で本家の坊ちゃんに惹かれて失恋するという役でしたし、「明日をつくる少女」(下の写真)でも東京下町の貧しいハモニカ工場の女工役でした。
これらの松竹映画のパンフレットも手元に残っています。

桑野みゆきはその後、大島渚の「青春残酷物語」で女優として評価されたようで、次の大島作品の「日本の夜と霧」にも出演しています。これらの二作品は封切よりもずっと後に観ていますが、筆者は大島渚が嫌いなのと、桑野みゆきが汚れ役でそれまでのイメージと余りにも異なるので、あまりよい印象が残っていません。大島の、頭で作ったこの頃の映画が嫌いなのですね。

彼女は松竹の女優として、100本を超える映画に出演していますが、これ以降は、小津安二郎の作品以外、彼女の出演作品を観ていません。松竹の路線の変更のためか、あまり良い作品に恵まれなかった印象です。ただ例外は、黒澤明の「赤ひげ」です。この作品で、桑野みゆきは「おなか」という役で他社出演をします(23歳)。おなかも不幸の影を背負った役でした。始めて車大工の佐八と出会う雪のシーン、浅草浅草寺で風鈴を前景に赤ん坊を背負って佐八と再会するシーン、佐八の長屋を訪れ、姿を消した説明のなかで大地震の後、崩れ落ちた家と太陽をバックに煙の中を彷徨うシーン、抱き寄せられて自ら短刀を胸に刺してこと切れるシーンは、彼女の表情とカメラワークと相まって秀逸なシーンでした。
この映画の彼女の出る場面についての詳しい説明はここをご覧ください。写真もこことここからお借りしています。

桑野みゆきは、その後、昭和42年25歳の時に結婚して完全に引退してしまいます。青春時代よりちょっと前の、懐かしい思い出です。

閑話休題。映画館入場者は、昭和33年がピークで、その後、急速に下降していき、昭和45年あたりで底を打ち、その後は横ばいになります。
グラフはここからお借りしています。

映画館客の減少は、テレビの普及が大きな影響を与えていました。松竹の路線の変更は、映画館入場者の減少による業績の悪化によるものでしたが、会社はいわゆる松竹大船調が飽きられたと思って路線を変えたのです。石原裕次郎がデビューして日活が元気だったため、新人を発掘しようともしましたが、必ずしもうまくいきませんでした。

このことと呼応するように、筆者も自由が丘ひかり座の狭い劇場で、石原裕次郎の「風速40メートル」や「陽のあたる坂道」、「紅の翼」などを観ています。

「紅の翼」はよく覚えています。確かお正月映画で、おこずかいを持ってお正月に観に行った気がします。石原裕次郎の歌う主題歌、「空に心があるんなら、翼も夢を見るんだぜ。」を口ずさんでいました。これより後になりますが、「若い川の流れ」、「あじさいの歌」も観ています。東宝映画や東映映画もいくつも観ています。たとえば、「第五福竜丸」など。この頃のパンフレットが、かなりきれいな形で残っていました。年は前後するかもしれませんが、古いと思われるものから順に、列挙しておきます。

日本南極地域観測隊の記録・南極大陸、ゆうれい船、若様侍捕物帳・鮮血の人魚、地球防衛軍、底抜けのるかそるか、日本誕生、忠臣蔵(長谷川和夫主演)、民族の河メコン、ぶっつけ本番、駅前旅館、吉川英治の太閤記、大怪獣バラン、この天の虹、隠し砦の三悪人、怪傑ゾロ、偽将軍、雪の渡り鳥、シンバッド七回目の航海、空挺部隊、お嬢さんお手やわらかに、リオ・ブラボー、マルセーユ死の突破・七つの雷鳴、親指トム、テンペスト、続・菩提樹、腰抜列車強盗、三十九階段、或る殺人、青い牝馬、女王様はお若い

1年生の時は、古い洋画の三本立ての劇場だった自由が丘劇場の上映ニュースはそれほど多く残ってはいないので、主に邦画を見ていたようですが、中学校高学年になると自由が丘劇場の上映ニュースが多くなるので、洋画三本立ての劇場に、せっせと通ったようです。自由が丘劇場で観た最初の映画はたぶん、ジョン・ウェン主演の「ジェットパイロット」です。残っている上映ニュースを見ると、実にたくさんの洋画を観ていることが分かります。いちいち列挙するとたいへんな数になるのでやめておきますが、特に気になる作品を書いておきます。

最後の楽園、芽ばえ、影、縛り首の木、プリンセスシシー、十二人の怒れる男、北北西に進路を取れ

「最後の楽園」のテーマ曲「パペーテの夜明け」の口笛は印象に残っています。

「芽ばえ」は原題が「Guendalina(グエンダリーナ)」と言い、若い主人公の名前です。主演のジャクリーヌ・ササールの全身黒タイツ姿に胸ときめいたものです。
「影」、ポーランド映画です。見た時は話の内容がよくわかりませんでした。ただ、走行中の列車から男が落ちて死に、それを検視した医師が昔を思い出して話がつながっていくといった内容でした。ずっと後になってNHKで放映され、それを録画して見たのですが、それでもよくはわかりませんでした。製作は1956年で、ポーランドがまだ苦難の時代の影が色濃く反映された、謎に満ちた映画です。

「プリンセス・シシー」は、ロミー・シュナイダーがオーストリア皇帝ヨーゼフ1世と結婚するエリザーベトに扮した映画で、若く美しいエリザーベトの雰囲気をよく出しています。ドイツで大ヒットした映画で日本でもヒットしました。ロミー・シュナイダーは両眼の間が離れていると、みんなで話したような気がします。上に上げたパンフレットのリストの最後にある「女王様はお若い」は、シシーの前年に制作されていますが、日本公開はシシーの翌年でした。この映画では、若い日のイギリス女王ヴィクトリアを演じています。

その他雑多なこと

尾山町宇佐神社裏手の小山で戦争ごっこ。どこかで読んだ記事に歯磨き粉を小さな布製の袋に入れて、投げあうと硝煙のように煙が立ち込め、戦争ごっこが本物らしくなるというのがありました。さっそく真似て、歯磨き粉の代わりに小麦粉を入れた袋を作り、戦争ごっこをやりました。

生い立ちの記の9で書いた大谷英語塾の大谷光輝先生から、高校へ入学した後にお祝いの葉書をもらっています。消印の日付をみると4月2日なっていて、誕生日です。見計らって投函したのでしょうかね。英文には、よく頑張ったね、おめでとうと共に、future successを希望しますと書かれています。

まだ書き足りないことがあると思うですが、映画のことを中心としたこの項をここで終えることにします。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ