生い立ちの記7 小学校時代補遺

八幡小学校時代、尾山台小学校時代、その頃、観た映画と読んだ本などを、生い立ちの記の(3)から(6)までに書きましたが、抜けていることや思い出すことがあるので、ここに順不同で書いておきたいと思います。

お祭りと縁日
美空ひばりの歌「お祭りマンボ」の中に出てくる隣のおじさんではないけれど、お祭りが好きでした。ただし、歌にあるようにお神輿担いでワッショイ、というわけではありません。お神輿を担いだことはほとんどありませんでした。お祭りの時に出る屋台を見て回るのが好きだったのです。
家があった玉川奥沢町3丁目(●、現・尾山台3丁目)の氏神様はどこなのでしょうか。東京都神社庁の世田谷区の神社を見ると、この番地は、奥沢神社玉川神社尾山台宇佐神社の3つの神社のほぼ重心に位置しています。もっとも近い宇佐神社を調べてみると、氏子地域は、環八の向こう側の尾山台1丁目と2丁目なので、該当しません。奥沢神社の場合は奥沢1から8丁目で、奥沢8丁目は南北に走る道を挟んだ九品仏寄りなので、残念ながらちょっとだけ外れています。調べていくうちに、等々力と尾山台三丁目は玉川神社が氏神様だという記述がありました

村や町の名前の変遷、神社との関係など、調べたら、おもしろいことがいっぱいありそうですが、今はこれ以上はやめておくことにします。と言いつつ、やめる前に一つだけ付け加えると、奥沢神社は以前は八幡神社と呼ばれていました(明治42年改名)。幕末慶応のころにこの神社の中に土地の有志によって寺子屋がつくられ、これが受け継がれていきます。明治12年になり、これを発展させ、社寮の一部を改修して小学校が開設され、神社の名前にちなんで八幡小学校としたということです。八幡小学校、ずいぶんと由緒ある古い小学校なのですね。小学校に通っている頃、皆は奥沢神社と言わずに、八幡神社あるいは八幡様と言っていた気がします。

小学生のころ、宇佐神社の祭礼に行った記憶はなく、主に奥沢神社と玉川神社、それと神社ではないけれど、九品仏浄真寺の縁日によく行きました。下の写真は、奥沢神社と玉川神社です(WikipediaとベビーキッズTVより)。

小学校3年までは八幡小学校に通っていたので、奥沢神社のお祭りによく行きました。お祭りのときは露店、屋台がいっぱい出ます。鳥居を入ってすぐ左側に、地面に布を敷いて品物を並べただけの簡単な露店があり、並べられた品物の中に十徳ナイフ(ガラス切り付き)がありました。売り子、と言ってもおじさんですが、は小さな丸い刃のガラス切りで、板ガラスを上手に切断していました。ここに十徳ナイフの記事がありました。ページの一番下です。

これが欲しくて、結構高かったけど買い求めました。ガラス切りなんて必要はなかったのにね。もう捨ててしまって所持していないのですが、いろいろ検索して、これだというのが見つかりました。旗印の十徳ナイフです。オークションにかかっていた、昭和32年の保証書のついたものです。
十徳の内容が左の袋に書かれています。上から順に、ナイフ、ツメヌキ(センヌキの誤記)、ガラスキリ、カンキリ、ツメヤスリ、ケヌキ、ジシャク、ミミカキ、ヒモ通シ、パイプ通シ、で10あります。確かに十徳ナイフです。でもナイフの刃が磁石になっているからと言って、磁石として数えるのはなー、と思ってしまいます。ガラス切り、試しました。力の入れ具合にコツがあるようですが、切れることは切れました。今はもう、この会社はないようです。

この頃は、手回しにせよ電動式にせよ、鉛筆削りのようなしゃれたものはなく、鉛筆を削るために肥後守を持っていました。このナイフを肥後守の代わりに使ったのかもしれません。そんなせいか、十徳ナイフに興味があり、ずっと後になってスイスアーミーナイフを買っています。またアメリカのホームセンターに行くと、いろいろあるこの種のナイフというか工具(ペンチまでもがついている)に目が行ってしまいます。でも、肥後守で鉛筆を削ったようには、スイスアーミーナイフ、利用をしていないですね、ただ持ってるだけ。

玉川神社のお祭りの時、なんでも透視できる魔法の透視鏡(あるいはX線鏡と言っていたかしら)を、神社の裏の方で売っていました。黒い円筒状の、小型の望遠鏡のような形をしていて、これを通して鉛筆を観ると芯が透けて見える、卵を見ると黄身が透けて見える、手のひらをかざすと骨が見えるという触れ込みです。

凄い!と思って買いました。買っていろいろのものを見ると、確かに中心部に影のようなものが見えます。鉛筆の場合が最も本当らしく芯が見えます。手を見ると、5本の指の中に黒い(いや、黒いというよりも虹がかかった濃い灰色のような)ものが見えます。
この写真は、このページのものをお借りしています。

その時はそれほど知識があったわけではありませんが、指の中には複数の骨が関節でつながっているはずなのにそれが見えず、のっぺりと連続していて変だなと思いました。しばらく覗いた後に解体したら、対物側のレンズ(ではなくて単なるガラスだったかも)に鳥の羽毛が貼り付けてありました。要するに羽毛による光の回折像を見ていたのですね。その時はそんな細かいことまでわかりませんでしたが。やられた!と思いましたね。

今回、これを書くにあたって調べてみると、典型的なテキヤ屋のネタ(商品)で、「かっては祭りの露店や学校の校門近くにも現れた」と書かれていました。明治期の雑誌広告にすでに「X線光線器」として登場しているということです(下の図は上記のサイトより)。ずいぶんと高い値がついています。

九品仏浄真寺
縁日によく行ったという九品仏浄真寺は、広い境内がある、かなり大きなお寺です。九品仏駅のすぐ北側に参道入口があって、けっこう長い松並木の参道を進むと、総門があります。

総門が見えてきました(以下の九品仏の写真は筆者が2017年3月に撮影したものです)。

総門をくぐって境内に入るとすぐ右手に閻魔堂があります。堂の中には、正面に閻魔様が杓を持ち、赤い顔をして口を横に開いています。右手には全体が白っぽい正塚のお婆さんが座っています。葬頭河婆、正塚のお婆さん、正しくは奪衣婆(だつえば)というんですね、知りませんでした。ずっと塩塚のお婆さんと思っていました。

子供のころはよく「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」と脅されたので、この閻魔堂を覗くのが怖かった記憶があります。正塚のお婆さんも怖かったし。うん?、昔はお婆さん、左側のもっと入口に近いところにいたんじゃなかったかしら。

さらにまっすぐ進んで左に曲がると、正面に仁王門が見えます。かなり立派な仁王門です。
仁王門をくぐると左手に、こじんまりとした鐘楼が見えてきます。この鐘楼の後ろ側に土塁が伸びています。

このお寺は、江戸時代に奥沢城の跡地に建てられたので、境内は土塁に囲まれていて、周りの家並みが隠され、広い境内に鐘楼、本堂、三仏堂が適当に散らばっています。筆者が子供のころは、境内は今よりもずっと整備されてなくて歩道を仕切る柵もなく、広い運動場のような感じでした。一昔も二昔も前の景色のようだったので、よく東映の時代劇の撮影が行われていました。ぼんやりと眺めていると、撮影はなかなか進まず、1カット撮るのにすごく時間がかかっているんだと思ったことを憶えています。

そうそう映画と言えば、石原裕次郎が主演した「乳母車」という映画では、この九品仏の三仏堂の前にある仏足石に裕次郎が寝転がって寝ている隙に、芦川いずみが赤ちゃんの入った乳母車を黙って持ち去ってしまい、目覚めた裕次郎が探し回って境内を駆けまわり、参道入口の右側にある交番へ駆け込むという場面がありました(下の写真はここより借りました)。

この映画を観ると、昭和31年ころの映画の舞台の一つであった奥沢周辺の風景がよくわかります。ちなみにもう一つの舞台は鎌倉です。この映画を観たのは中学生になってからかな。

閑話休題、鐘楼を左に見ながらさらに西に進むと、右手に本堂があり、正面に三仏堂が見えます。本堂に向き合う形で、北から中品堂、上品堂、下品棟の3棟が一直線に建てられているという、変わった伽藍配置が見て取れます。次の写真は上品堂の前から本堂を臨んだものと、逆に本堂の前から上品堂(右)と下品堂(左側)を見たものです。

上品堂の中には、それぞれ印相が異なる上生(中央)、中生(右)、下生(左)の3体の阿弥陀如来が安置されています。中品堂、下品堂にも3体ずつの阿弥陀如来が安置されているので、合計9体、これが九品仏の名前の由来です。

おめんかぶり
浄真寺では、3年ごとに「二十五菩薩来迎会」通称「おめんかぶり」が開かれます。写真を撮ったこの年(2017年)がその年に当たっていて、本堂に宣伝ポスターが貼ってありました。これまではお盆の8月に行われてきたのですが、あまりに暑いのでこの年から5月5日に開かれるようになったようです。

おめんかぶりという行事は、本堂を此岸、上品堂を彼岸(西方浄土)と見立てて、両者の間に36間の木の橋(白道)をかけ、阿弥陀如来と24菩薩が彼岸と此岸の間を渡るという行事です。お面といっても縁日で売っているような顔の前面だけを被う薄いお面ではなく、頭全体を前後から挟むという感じの大きなものです。

本堂の釈迦如来の右手からは五色の太糸が出て、本堂出口で白布にまとまり橋に沿って伸び、橋の中央の大塔婆を経て上品堂まで伸び、ここで再び五色の糸に分かれて上品堂の3体の阿弥陀如来とつながります。以下の3点写真はここからお借りしています。

当日、まずは信徒がスカートのような服装と黄色い手袋で身なりは整えていますが、お面をかぶらずに、拍子木を打ち鳴らす僧侶に導かれて本堂から上品堂へ準備のために渡ります。

やがて、鐘の合図で、それぞれの方がお面をかぶって25菩薩に扮し、楽人に導かれて、橋を渡って上品堂から本堂へ来迎のために渡ります。よく来迎図として描かれているものが演じられているわけですね(下の図は平等院の扉に描かれているもの)。

ちょっとよたよたした歩きになるのは、お面が重いからではと思ったら、音声による解説では、お面に開いている眼の位置の2つの孔がとても小さいので、介添えが必要と言っていました。25菩薩の顔はどれも同じなのですが、持っているもので見分けられるようです。唯一顔が異なる地蔵菩薩が最後に渡ります。

本堂へのお迎えの渡りが終わると、今度は本堂(此岸)から上品堂(彼岸)へ、25菩薩が渡ります。25菩薩に続いて僧侶衆が蓮の花ビラを撒きながら(散華)従います。往相です。下の2枚の写真では、花弁が舞っています。横長の写真は、下で紹介しているYouTubeの画面からコピーしたものです。

お迎えに行ったわけですから、往相では往生する人を導いてくるわけで、往生する人の代表として開山の珂碩上人が従います。その後を稚児たちが渡っていきます。

最後に、三回目のお渡り(還相)として、お面を外した信徒衆と、多数の僧侶衆が再び散華しながら上品堂から本堂へ戻り、稚児が続きます。最後に往生した珂碩上人が現世の衆生を救う神通力を持って、此岸に布教のために戻ってきます。

これら一連の行事の動画がYouTubeにあります。ぜひご覧ください。これは2014年8月21日のものです(18分35秒)。

子供の頃、おめんかぶりを見に行って、五色の紙に印刷された蓮の花ビラを一生懸命に拾って、家へ持って帰ったことが思い出されます。

浄真寺の縁日
上に書いたように、浄真寺の境内は広いので、縁日の時には面白い屋台というかお店がいろいろありました。

よく覚えているのは、ハブ屋です。香具師(やし)が鐘楼の横の広い場所を陣取り、お客を多数集めて地面に棒で丸く線を描き、「危ないからこの線から出ちゃだめだ」などと言いながら前の子どもは座らせて、真ん中で口上を述べていきます。

香具師の傍らには布袋が置いてあって、この中に猛毒を持ったハブが入っている、と言うのです。布袋には確かに何かが入っているように見えますが、なかなか袋の中身は見せません。そうして、切り傷が治るとか黒子が取れるとか言い、さらには腕に小刀で傷をつけ薬で止血をして見せて、小瓶(あるいは金属容器)に入った薬を売るのです。お客の中から買ったと声を出す人が出て、それなりに売れていました。さすがに買いませんでしたが。

何回も見ているので、いろいろなバージョンがあり、実際にハブ(あるいはマムシか)を取りだして口を開け、鋭い歯を見せ、それで噛ませてから薬を付けるというのもあったと思います。また、ガマの油売りの口上で、紙吹雪を作り、その刀を当てて傷口を作って、止血するというのも見た記憶があります。飽きもせず口上を聞いていました。

同じ場所に見世物小屋がかかったこともありました。木を組み筵で覆った小屋で、入り口で入場料を払って中に入るのです。外に掲げた額絵には、夜になると布団に寝ている美女の首が伸びて油をなめるロクロ首、人を襲う大イタチ、オオネズミがおどろおどろしく描かれています。

こわごわ中に入ると、口上で「親の因果が子に報い、、」と言い、着物を着た女の人の人形が座っています。首のところに縦に枠があり、口上に合わせて後ろで女の人が立ったり座ったりして首を上下に動かしているというものでした。こんなイメージです(ちなみのこれはここから借りた写真です)。
オオイタチは大きな板に描かれた血糊でした。さらに進むとオオネズミと称する生物が水を張ったプールにいましたが、今考えるとこれはヌートリアでした。ホルマリン漬けの標本もあったような気がしますが、一方通行で、そのまま出口へ導かれます。
写真はWikipediaより

同じ境内で、おめんかぶりのような「聖」と見世物小屋の「俗」が同時にではないけれど併存する、、不思議なコントラストですね。

お祭りの屋台の食べ物屋さん、今ではタコ焼き、焼きそば、などが定番ですが、昔は飴細工やしんこ細工がありました。飴細工は水飴に気泡を入れて白くした晒し飴で、和ばさみを巧みに使って干支の動物などを作って食紅などで彩色し、割り箸の先につけて売るものです。
上の飴細工の写真はここから借りています(谷中です)。

しんこ細工はもち米粉を水で練って砂糖と食紅などを加えたものを捏ねて、やはり干支の動物や鯛などを作るものです。お祭りでは比較的簡単な鳩のようなものを作り、中に黒蜜を入れて売っていたような記憶があります。

それからカルメ焼きをその場で焼きながら売っていました。家に銅製のおたまと撹拌棒があったので、ザラメと重曹を使って試したけれど、どうしてもうまく膨らみませんでした。膨らんでも陥没しちゃうんです。

お祭り・縁日関係は、まだまだ書き足りないことがある気がしますが、ここで打ち止めにしておきます。

丸子多摩川花火大会とサーカス
これ以外のイベントでよく覚えているのは、丸子多摩川花火大会です、夏の夜に多摩川近くまで行きました。当時は丸子橋の川崎市寄りの河川敷で開催されていたようで、川の向こうで打ち上げられる打ち上げ花火を見て、締めの仕掛け花火のナイアガラの滝を堪能しました。尺玉を打ち上げたときの、ドーンという腹に響く音が懐かしいです。
写真は上記ページよりお借りしています。昭和27年の打ち上げ花火スターマインです。次のナイアガラの滝の写真はイメージです。ここからお借りしています。

諸般の事情で、今は丸子橋での花火大会はもうなくて、二子玉川で世田谷区と共同開催をしているそうです。昨年豪雨で中止となり、しかも集まった観客に落雷で死者が出たので、今年から8月開催を止めて10月開催にしたようです。

ついでにもう一つ。サーカスが結構好きでした。確か多摩川園で開かれた木下大サーカス(あるいはキグレサーカス?)を観に行きました。この頃は、サーカスはなんとなく胡散臭いもののような感じでした。「美しき天然」のメロディーのジンタが、なんとなく哀愁を帯びていたからかもしれません。夕方遅くまで遊んでいると、母からよく「サーカスにかどわかされてしまうよ」と脅されました。サーカスの人は皆、どこからか人さらいによって誘拐されて調教(?)され、演じているのだと思っていたかもしれません。出し物には空中ブランコや綱渡りなどがありましたが、強烈な印象が残っているのが、モーターバイクショーです。球形の金網の走行場所をモーターバイクでぐるぐる走り回るのです。真横、上下と自由自在です。視覚の記憶よりも、バイクの轟音とガソリン(オイル?)のにおいを強烈に覚えています(写真は現在のものです)。

後年、子供たちを連れて、後楽園でのボリショイサーカス公演、稲毛海岸に近い空き地でのサーカス公演(これも確かボリショイサーカスだったと思うが)に、よく行ったものです。

怪我をした
尾山台小学校の庭に面した南側には、道路に沿って椎の木(多分)が並んで植わっていました。小学校の時、この木に登って隣の木に渡ってゆくという遊びをしていました。ある時、腐った枝を掴んでしまい、枝が折れて真っ逆さまに下に落ちてしまいました。反射的に右手を突いたので手首を骨折しました。

家に帰ってもしばらく黙っていたのですが、だんだんと痛みが出てきてついに木から落ちたことを告白、八幡小学校から自由が丘へ向かう坂の左側にあった喜島接骨院で治療してもらいました。この先生、大きな顔で額に大きなこぶがある骨接ぎの先生(たぶん柔道家)で、笑いながら「泣いてると放送しちゃうぞ」などと言いながら治療をしてくれました。

男の子に怪我はつきものです。上に書いた骨折以外に、小さなものは除いて小学校のころ、傷が残る怪我を3回しています。

1番目は、弟とけんかをして(原因は不明だが)、追いかけ合いになり、家の一番北側にある煮炊き所に逃げ込んだ弟を追いかけたときに、ガラス戸をパッと閉められてガラスに手を突っ込み小指を切りました。3針縫う怪我でした。今でも傷が残っています。

2番目は、小学校の時に尾山台小学校へ行く道の左側の角にある友達(名前忘れた)の家に行き、遊んでいた時に誤って湯飲み茶わんを右足で踏んでしまい、茶碗が割れてそれがくるぶしのすぐ下側に刺さってけがをしました。今でもうっすらと傷跡が残っています。

3番目は、自由が丘デパートの屋上にあったローラースケート場でのものです。このローラースケート場へは弟とよく行きました。最初は確か父に連れて行ってもらい、滑り方を習った気がします。デパートは東横線沿いに細長く建っているので、当然スケートリンクも細長いものになります。ある時、細いほうでスピードが出すぎて止まらなくなり、金属の丸い手すりに激突、おでこが手すりにぶつかってえぐれたような傷がしばらく残りました。今では傷跡はほとんど目立たなくなりましたが、ちょっと膨らんでいます。

ゴム動力模型飛行機
少年の付録には飛行機類が結構ありました。でも、厚紙を折って作るものなので、飛行距離はたかが知れています。もっと本格的なものが作りたくて、ゴム動力飛行機キットを買いました。竹ひご、プロペラ、動力のゴムひも、ニューム管、胴体となる四角い木の棒、翼と胴体を繋ぐ中央部の木の型板などが入っています。設計図に従って竹ひごを切り、翼の先端部分の湾曲した竹ひごを設計図に合うようにお湯で温めて曲げてニューム管でつなぎ、主翼を作ります。薄い紙を翼に貼って完成させ、主翼を胴体にゴムで固定します。これは後で翼の位置を前後できるようにするためです。水平尾翼と垂直尾翼にも紙を張り、プロペラ軸受けを胴体につないで糸でぐるぐる巻きにして接着剤で固めて完成です。次の写真はイメージです。昔のはプラスチックは使ってなかったです。
広い場所が必要なので、尾山台小学校の校庭に行って、飛ばしました。最初はそれほど長い距離を飛ばなかったので、主翼の位置を動かしたり、主翼の前後の傾きを調整したり両端の反りを直したりして試みます。やがて、飛ぶ距離が伸びてきました。ゴムをしっかりと巻いて、やや上方に向けて押し出すとぐんぐん上がって、しかも旋回するようになりました。これで迎角を体感しました。

最後に一杯にゴムを巻いて押し出したところ、ぐんぐんと上昇し、たまたま吹いてきた風に乗って校舎の屋根ほどに上がって校庭を横切り、南側の椎の木の上も越えて、民家の方へ飛んで行ってしまいました。追いかけたのですが、見失ってしまいました。すごーくよく飛んだという充実感と、どこかへ行ってしまったという喪失感がない混ぜになって、複雑な気持ちでしばらく校庭の真ん中に立ち尽くしていました。
上の写真はもちろんイメージです。ここからお借りしています。

尾山台小学校から南に2ブロック行くと環八です。小学校当時はまだ環八は完成されておらず、このあたりはずっと桜並木でした。交通量もまだ多くないので、八幡小学校へ通っているときは折田みつ子さんと一緒に下校の通り道にしていたそうで、この桜並木に毛虫がいたこと、それを飽かずに眺めていたと、折田さんが証言しています。桜の花がきれいに咲いた景色は憶えていますが、毛虫のことは、まったく記憶がないのですが、、。環八の桜並木は切られてなくなってしまいましたね。

授業で覚えていること
写真がないからかもしれませんが、小学校での授業のことはほとんど覚えていません。すでに書いたように畑先生の「偶成 朱熹」を声を出して覚えたことぐらいでしょうか。でも理科の授業で、モーターを作ったこと、石鹸を作ったことはよく覚えています。

モーター製作はキット(三極だったような)を使った気がします。エナメル銅線をロータ―の三本の腕に幾重にも巻いて、モーター軸に整流子を付け、ロータの各腕のエナメル線の両端を隣り合う整流子とつなぎます。軸受に載せて整流子をブラシで挟みます。別の鉄芯にエナメル線を巻いて、二つ向かい合わせにして回転子を挟むように置きます(界磁)。2つのブラシに電池から直流電流を供給し、同時に界磁にも給電します。これでローターが回り始めます。

簡単な回路で原理を説明すると、以下のようになります。
回転に伴って流れる電流の向きが逆転するので、回転子のNとSが逆転して界磁に対して反発したり引き合ったりして、回転するのです。三極モータの場合は以下のように電流が流れ、同じようにNとSが入れ替わります。

こんな原理までは小学校の6年生には全くわかりませんでしたが、ブラシと整流子によって、何か変化が起こっているのだということはわかりました。電流と磁力の関係を学習するのは高校ですものね。

石鹸を作る授業も面白かったです。このときは苛性ソーダを使って植物油脂を鹸化したのです。加熱したことを憶えています。その後、どろどろになったものを、塩水で洗ったのだろうと思います。この辺はあいまいなのですが、何度か洗ったものを新聞紙の上で水を切り、固めたのだと思います。確かに泡立ったことを記憶しています。
これも上のモーターと同じで、油脂を強アルカリでグリセリンと脂肪酸に分解するというのは、高校の化学で学習することですから、原理も何もはわかりませんでした。でも泡立って面白かったという記憶があり、鹸化という言葉はその時、憶えたと思います。

今の知識では次の反応式になります(Rは適当なアルキル基)。

R-COOCH2CH(OOC-R)CH2OOC-R + 3 NaOH
→ C3H5(OH)3 + 3 R-COO-Na

こう考えると、受け身の授業で学習したことは、あまり頭に残らないけれど、手を動かしたことはよく覚えているんですね。教育の在り方の原点を示しているような気がします。

教室でのことではないのですが、下村浩君とさかなへん、きへん、ふねへんの難しい漢字を競争で覚えて、お互いに問題を出し合って競ったこともありましたっけ。

尾山台小学校卒業に際して
尾山台小学校を卒業するとき、A6のノートにクラスの一人一人に何か一言、住所と共に書いてもらいました。この頃から収集癖があったのか、すべてのクラスメートに書いてもらっています。そのノートが保管されていたのです。
自分で書き込んだ言葉は、こんなものでした。シンプルすぎて芸がないですね。
でも、これと同じように「正しく」あるいは「正しい」という語を含む書き込みが多い感じです。「もんけつがんばれ」というのもありました。筆者の小学校時代のあだ名は「もんけつ」だったのです。「もんけつ、もがつくもんざえもん、もーにかけて、もっちゃかもっちゃか」と囃されたものです。

クラスメートだけでなく、何人かの先生にも書いてもらっています。先生方は書きなれているようで、達筆です。甲斐校長先生にも書いてもらっています。
次のは担任の上田先生です。
ツェーデーエー、音楽の酒田先生です。

このページを閉じるにあたって、小学校時代の諸々のことに感謝の気持ちを込めて、卒業アルバムにあった先生方の写真と寄せ書きのページを載せておきます。ありがとうございました。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ