生い立ちの記2-幼稚園卒業まで

誰でもそうでしょうが、ここから先、幼稚園入学くらいまでは、記憶はあいまいで、話に聞いたりしてなんとなくそうだったかなーという話になってしまいますが、悪しからず。次の写真は1歳2か月の時の写真です。やはり自由が丘のオクズミ写真館で撮影しています。もちろん覚えていませんが。

小さい時からかなりおしゃべりで活発な子だったようです。床の間のある8畳の和室には仏壇が置いてあるのですが、3歳か4歳のころ、そこに陰膳を供えるとき、いつも「爺ちゃんママ上げて、父ちゃんママ上げて、それからボーヤ」と言いながらお供えしてたということをよく聞きました。父が出征からいつ戻ったか覚えていないのですが、まだ帰ってきていないころ、「帰ってくるかどうか,見ておいで」と言われて、家の前の道を九品仏駅の方に向かってトットと走って行ったものだ、と聞きました。現在の九品仏小学校のあるあたりは、まだ畑と竹林だったのですが、そこまで行ったそうで、緩い傾斜地の畑の先に竹林がある景色をよく覚えています。
昭和22年8月1日の航空写真です(図をクリックすると拡大します)。中ほどやや左にある白い四角形が尾山台小学校、そこから上側の道沿いに右に進んだ畑の隣にある小さな赤い矢印が我が家を指しています。右上にある黒い木々は九品仏浄真寺で参道が下に向かって伸びているのがわかります。

さて3歳離れた弟が昭和22年7月に生まれます。弟が2歳の時、昭和23年9月14日の日付でアルバムに貼られた写真があります。添え書きに、「撮影が長いので、与えられたおもちゃもあきて、つかれた所をパチリ!(原文のまま)」とあります。確かに不機嫌な顔をしていますね。

同じ昭和23年の11月15日には753のお祝いで、「千歳飴をぶら下げて」写真を撮っています。ん、まだ5歳じゃないのに? でも写真の裏書に母の字で日付と5歳と書いてあるので、信じることにします。

昭和25年4月に目黒区鷹番3丁目にある「育英幼稚園」に入園しますが、入園を記念して4月にやはりオクズミ写真館で弟と二人で写真を撮っています。

上に書いたように、育英幼稚園は目黒区鷹番にあり、最寄り駅は東横線学芸大学前です。つまり、幼稚園の時に電車通学をしていたことになります。九品仏まで歩き、大井町線で1駅行った自由が丘で東横線に乗り換えて、2つ目が学芸大学前です。駅から少し歩いたところに育英幼稚園がありました。
いまどき普通に見る幼稚園とは違って、少し大きな邸宅を改造したような作りでした。昭和7年に渡邊煕一園長が創立した幼稚園で、上の写真は卒業アルバムにあった1枚で、「手を引かれて入園テスト(人生の船出)」というキャプションがあります。

なんで電車通学までして、この幼稚園に通ったかというと、学芸大学付属小学校に入るためには、良い幼稚園という評判だったからだと、母に聞きました。教育ママだったんですね。どうやら学芸大学付属へ入れて、ゆくゆくは大学へ進ませ、教職にでもつかせようという図式を描いていたようです。

アルバムに、昭和26年3月19日、「英語会最後のお別れの日撮影」という写真があるので、幼稚園では英語会に入って英語を習っていたようです。

英語会でどんなことをやったか、あまり記憶がないのですが、3月22日のお別れ会の写真として、こんなものがあります。たしか、This is a chair.とかやっていたように思います。立っているのが私です。

前後しますが、ゆり1組の園児として1年間、通園し、卒業アルバムによると、ホールで合唱したり、サンルームでお絵かきをしたり、運動会でパン喰い競争、かめさん競争、お遊戯をしたりしています。下の写真は卒業アルバムにあるゆり1組の写真です。左端に立っているのが渡邊園長です。右端は担任の先生ですが、名前は忘れました。

はっきりと覚えているのは、3月22日のお別れ会で、朗読をしたことです。
母を介してだったか、直接だったかは忘れましたが、渡邊園長先生に呼ばれて発表会で童話の読み聞かせをしてほしいと言われ、表紙にニワトリ(チャボだったような)の親子の挿絵のあるガリ版刷りの原稿を渡されました。かなり長い文章で、埼玉だったかの鶏舎でニワトリとその雛が幸せに暮らしていたのが、ある時、火事があり、ニワトリお母さんは蒸し焼きになってしまいました。でもその羽の下から、ピヨピヨという鳴き声が聞こえ、雛たちは無事だったのです。というお話です。童話というにはちょっと悲しいお話ですね。

これを全文暗記して、みんなの前で(父兄もいました)読み聞かせるのです。母はきれいに折りたたんで紐で綴じて本のようにしてくれました。それを一生懸命暗記して、臨んだのが上の写真です。ちょっと緊張気味。でも、この読み聞かせ、とてもよかったよと、後で多くの人に言われました。

こうして学芸大学付属を受験するのですが、籤で落ちました。これも今でも覚えているのですが、大きな部屋(体育館か?)のステージに机があり、その上に壺が置いてあるのです。入学希望者のうち一次試験に合格して残った子供たちが順番に呼ばれ、ステージに上がって壺の中から札を引くのです。どんな札だったか覚えていませんが、スカだったのです。

こうして幼稚園時代を終えて、公立小学校へ入学します。ここでも本来の学区だと尾山台小学校へ入学するべきだったのでしょうが、東側の道の向こうだと八幡小学校の学区だったので、どういう風に工作(?)したのかわかりませんが、距離でいうとずっと遠い八幡小学校に通うことになります。


科学と生物学について考える一生物学者のあれこれ